Penny Blood Side Stories #4

By Ari Lee

モナコ公国

モンテカルロ

1919214

 

その春、モナコの空は前年よりもずっと早く氷の色合いを失い、明るい紺碧に染まった。春一番が吹くと、南方から戻ってきた河鵜が狙う新鮮な魚が集まり、地中海の暖かい風が海岸線に沿う崖をくすぐり始めた。

その崖の上に、ヴィトー・アンドリーニが立っていた。彼が選んだ褐色の断崖の下には柔らかな波が岩場に打ち寄せていた。この時期の海は浅い海底の藻類がよく見える半透明の青緑色だ。太陽が沈み始め、漆喰の街モンテカルロとその丘陵をジグザグに走る別荘群を柔らかなオレンジ色の光が照らしていた。

ヴィトーはジンの瓶を唇の上で逆さに持ち上げ、中に最後の一滴が隠れていないか目を凝らすが、そんなものは無かった。ため息をつくとヴィトーは瓶を地面に投げ捨て、崖に近づいた。海の息がほつれた上着とズボンの間を軽く揺らした。髪が汚れて痒い。上唇には乾いた血がこびりついていた。

『せめて自分の行く末を選ぶことぐらいはできるだろう』彼は弱々しい笑みを浮かべながら考えた。『やつらにアンドリーニの光を消させてたまるか。最後に笑うのはオレだ

ヴィトーは色あせた革靴を崖の縁に近づけ、少しよろめきながら崖の上を観察した。彼の惨めな人生の中で、水面を眺めることは確かな慰めの源だった。この人生の本を閉じる前に最後にもう一度、波の音を間近で聞くことができたらそれでいい。それがふさわしい終わり方だろう。

柔らかい金属の音がして、ヴィトーの視界は隅に何か動くものを捉えた。崖の方へと目をやると、その崖を登る男が視界に飛び込んできた。一瞬呆気にとられた後、太い手が崖の頂上を掴み、まるで大地を引き抜くかのように動く。呻き声とともに、その手の持ち主である背の高い筋肉質の男が地上へと跳び上がった。

「やぁ、失礼」男が背筋を伸ばしながら言った。「邪魔するつもりはなかった」

その不思議な人物を観察する内にヴィトーは、返事をすることができなくなっていた。汚れた白いシャツ、標準的なチノパンと黒いコンバットブーツを履いた彼は、かつては兵士か警備員だったのかもしれない。背が高く、大胸筋がシャツからはみ出そうな勢いだ。汚れた金髪の短い房が、よく手入れされた芝生のように、ふさふさした頭の上に乗っていた。顎はギリシャの彫像のように完璧に角ばっていて、夕焼けの中、深く据わった目は青いダイヤモンドのように純粋に見えた。

「べ、べつに邪魔なんか」ヴィトーはようやく言葉を絞り出せたが、その声は思ったよりも震えていた。「そこで何をしていた?」

「死体処理だ」男は何事もないように手首をほぐしながら答えた。「なんだ、知らなかったのか。あのカジノはもはや汚職好きなお偉いさんの巣になっているぜ」

ヴィトーはまたもキツネにつままれた様な感覚になり、手足のストレッチを始める男をただ眺めるしかなかった。

「もう諦めているのか」殺人男がヴィトーの方に不服そうな表情を見せた。

「オレを構うな」ヴィトーはすぐに海岸の方へ目線を戻した。「もうどうにもならないんだよ」

「そうかな。俺なら手伝えるかもよ。なにせ、殺しの訓練を受けているからな。万が一、一息に死ななかった場合に首をへし折るぐらいならお安い御用だ」

ヴィトーは訳もなく笑いだした。「よっぽど暇なんだね」

「そっちこそ」今度は殺人男が暗い含み笑いを漏らした。「見た感じ、五体満足のように見えるし、冗談を言われても普通に笑えるし、その上お前には気品がある。そうだな、顔を見ているだけで分かる。お前はバカなんかじゃない。教養がある」

「気品だと?教養だと?」ヴィトーはコートのヨレヨレな袖をはためきながら嘲笑った。「こんなにノミがついてりゃドブネズミも同然だ。救いようのないゴミなんだよ」

「何があったんだ。フラれたのか?カジノで全財産をスッたのか?頭でも狙われているのか?」

「どれも当たりだ」ヴィトーは小さい笑い声を出した。「そんなに分かりやすかったとは」

「確かに辛いだろうが、救いようがないとは言いすぎだ」殺人男が喋りながら前へ歩いて温かな片手をヴィトーの首の後ろに置いた。ヴィトーは少し怯んだが逃げようとしなかった。「それに、もっと大変なことを生き抜いたやつらだっていっぱいいるんだ。戦争を地獄の果てから生きて帰ってきたやつらだっているんだぜ」

「ああ、そうだろうな。世界にはすごいやつらがいっぱいいることなんか分かっているよ」ヴィトーはため息をつきながら、上半身に広まる温もりに負けないように集中しようとしていた。「ただオレは違う。オレは役立たずなんだよ。生きているだけで間違いを起こすようなやつ。35歳でそろそろ過去の数々の失敗から色々学べて人生をやり直すタイミングなのに、人生最大の失敗の連鎖を起こしてしまった。もう疲れたんだよもういい。おいしい飯、遊び、気持ちいいセックスはもう十分に経験してきた。もう眠りたい」

「どうせ命を捨てるなら、俺と一緒に捨てるのはどう?」

男は息がかかるほどの距離に近づき、ヴィトーはその鍛え抜かれた首と顔を見上げる他なかった。同様に、男はヴィトーを見下ろし、ヴィトーには彼が真剣であることが自ずと分かった。

「分からんやつだな」ヴィトーはイライラしたように嘲笑った。「ここで止めるように説得されても何も変わらない。一人の人間が失敗をある程度重ねると、もう、どうにもならないんだ。泥にはまりすぎたしばらく逃げ伸びてみたが、やつらが殺し屋を雇ってオレの写真を街中に貼りまくったからさ。もう逃げられないんだよ!分かったならもう他のやつに賭けてくれ」

「殺し屋は始末してやる。その後は2人で街から逃げよう」

「無理だ」ヴィトーは諦めたように首を振った。「そもそもオレなんかのためにそこまでする義理なんか無いだろう」

「言ったはずだ」男はまるで博識な講師のように厳しく答えた。「お前は他のやつと何かが違う。特別な魅力の持ち主だ稀に見る優雅さ。そしてお前のソレが必ず俺と、俺の家族と、俺の目的に役に立つ気がしてならない」

「家族目的?」ヴィトーはつぶやいた。「ああ、もしかして革命家かなんか?世界を変えようとしているやつ?」

「ああ」男は手を差し伸べた。「サリエルと呼んでくれ。世界を変える仕事を授かったとき、神から直々にこの名を付けてもらった。そっちは?」

その自己肯定感の高さに、悔しさと感嘆が入り混じった感情がヴィトーの脳を駆け巡った。このサリエルが正気でない可能性は十分にあるが、それにしてもこの温もりはどこから来ているのだろう?そう思う前に、ヴィトーは無意識に自分の細い手をサリエルに合わせた。握手すると、抗しがたい心地よさと圧倒的なエネルギーが胸を満たし、目を逸らすことができなくなった。

「ヴィトーだ」

 

MALICE AND MADNESS

 

ニューヨーク

ロウアー・マンハッタン

1920916

 

1
VITO

 

「よし、ガキども、おさらいしよう。正午の5分前までは何をすればいいかな?」ヴィトーはジョージーとクラレンスの間に目をやりながら尋ねた。

2人とも8歳以上には見えなかったが、話しぶりからするとそうとはわからない。ジョージーの大きな青い目はボロボロになったニュースボーイキャップの縁の下からヴィトーを睨みつけ、クラレンスは桟橋4番倉庫の埃っぽい内部へ視線を送っていた。その隣には大きな木製の荷車と茶色の疲れた様子の馬が立っていた。

「なんだ、やけに静かじゃないか。念のため言っておくが、さっきのは質問だったぞ?」ヴィトーはため息をつきながら掌を開いてアピールした。「待っているぞ」

「ヴィトーが戻ってくるまでクソ馬車を見張って誰も倉庫の中に入らないように気を付ける」クラレンスはサスペンダーを調整し、オリーブのズボンのポケットに手を突っ込みながらつぶやいた。

「良かろう。そして誰かがやってきて問題を起こそうとしたら?」ヴィトーが続いた。

「クソポリ公が来る前に石を投げつけて逃げる」クラレンスは、またしばらく沈黙した後にそう答えた。

「いかにも正しいけど、クラレンス。汚い言葉を使うのはやめなさい。それとも名詞が口から出てくる度にウンコを連想させたいの?」

「クソは汚い言葉なんかじゃない」クラレンスが抗議した。

「よく言うぜ。まさかお母さんに対してそんな汚い口を使っていると言わないでくれよな」

「お母さんなんかいない」クラレンスはそう言ってから、草むらに唾を吐いた。

ヴィトーは辟易した。「まいったな」

「早く金をくれよ」ジョージーが突然口を挟みながら前へ踏み込んだ。その革靴に靴底があったなら、もう少し脅迫的だったかもしれない。

「まぁ、安心しろ、ここにあるんだよ」ヴィトーは苛立ったように息を吐きながらそう言うと、ポケットから一握りの紙幣を取り出して、嘘ではないことを示した。「半分は今すぐ、残りの半分は2人のタスク完了を確認した後に渡すよ」

2人の子供はぶつぶつと呟きながら頷いたが、まだ熱心とは言い難い様子だった。それは仕方のない事だろう。街は人から感情を打ち消す術を備えていた。

「おい、こいつは見たことある?」ヴィトーはやけくそになってポケットから25セント硬貨を2枚取り出した。一枚は左手の指に隠し、もう一枚は右手にかざし、その銀色の輝きで少年たちの注意を引いた。そして、まるで25セント硬貨が両手の間を瞬時にテレポートするかのように、ヴィトーは右の25セント硬貨を素早く落とし、左の25セント硬貨を見せた。何度も何度も、少年たちの目がついていけないほどの速さで。そして、その一枚を袖にしまい、子供達が口にするであろうコメントに備えた。

「すげえ、どうやってやったんだよ!」子供たちが同時に叫んだ。「手を見せろ!」

にやにやしながらヴィトーは両方の掌を開き、そこにあるのは1枚の25セント硬貨だけであることを示した。ジョージーとクラレンスは驚いて、彼の袖の下まで目を走らせたが、もう片方の25セント硬貨はすでに彼の肘の後ろにしっかりと収まっていた。

「魔法だ」ヴィトーは微笑みながら答えた。「やろうと思えばなんだってテレポートしてやるよ。だからちゃんと仕事をするんだぞ、ガキどもまぁ、良い子にしてくれたら後で秘密を教えてあげてもいいけどね」

子供たちの目が光った。「本当に?!」

「ああ、約束しよう。そうえば、時間を測りようがないんだな。ほら、懐中時計をあげるよ。別に返さなくてもいいんだよ?いつでも新しいのを手に入れることができるからな」

そう言って、ヴィトーは上着のポケットから鎖のついた小さな銀時計を取り出して、前に差し出した。クラレンスの方が早くそれを手に取った。

「さあ、この馬車から目を離すな。いい仕事をすれば相応の報酬がもらえる。失敗したら地獄行きだ。質問はあるか?」

ヴィトーは少なくともジョージーが脅迫を何とも思ってないことは分かったが、それは問題ではなかった。その表現は、単に彼が本気であることを示す方法であり、貧しい子供たちを傷つけるつもりはないことは確かだった。ヴィトーは、彼らが最終的に仕事をすると確信していた。恐怖心からだけでなく、この仕事が簡単で報酬が良いからだ。

「一体この馬車に何が入っているの」ジョージーが聞いた。声は、質問というより感嘆に聞こえた。

「クソガキには関係ない」ヴィトーは山高帽子を直しながら真剣に答えた。「中を嗅ぎまわるような真似はするなよ。いいか?」

ジョージーは曖昧に肩をすくめてそっぽを向いた。その隣では、クラレンスが埃っぽいコンクリートの上に身をかがめ、懐中時計をおもちゃのように振り回していた。

「計画通りに進めたら問題はない」ヴィトーは扉にたどり着くと後ろへ言い放った。「信じろ」

ヴィトーは立ち去ろうとした。馬と荷車は橋脚に面した後部ドアから倉庫に運び込まれ、パレットと木枠の山の後ろにぴったりと配置されていた。そこにジョージーとクラレンスを残し、朝を乗り切るためのクラークバーとドーナツも大量に置いて行った。

外に出ると、ヴィトーはハドソン川の潮風が髪を撫でていくのを感じた。ボート、フェリー、カーゴ船が朝日を反射する波間をゆっくりと縫うように進み、対岸のジャージー・シティは目覚めつつある。木曜日の早朝、ロウワーマンハッタンはまだ喧騒に包まれていない。ウエスト街を歩く老人の姿がちらほらと見え、東側のフェリーターミナルはゲートを開け、そこをカモメが旋回していた。

ヴィトーはブロード街には向かわず、バッテリー・パーク方面に歩いていった。フランクフルトやクニッシュ、レモネードなどを通勤途中の腹ペコの男女に忙しく配る露天商を通り過ぎると、ソーセージの油、フライドオニオン、レモンの香りが一瞬鼻腔に広がった。路面電車のレールに沿って自動車や馬車が、歩道からはみ出た歩行者をよけながら、ウエスト街を行き来している。

島の南端にあるこの広い公園には、ニューヨークではなかなか見られない緑があり、趣のある水族館や浴場、エリス島やスタテン島、ブルックリンへのフェリーもあった。ヴィトーは気分が落ち込むとよくここに来てベンチに座り、港に出入りするボートを眺めていた。ヴィトーはコートのポケットからドーナッツを取り出し、もう片方のポケットからジンの入った小さなフラスクを取り出してつかの間の休息に浸った。ジンは彼の緊張を和らげるだけでなく、筋肉をリラックスさせる効果があった。そして今日はもしサリエルから射撃の命令が入ったら、その効果が必要となるだろう。

朝食を嗜みながら、ヴィトーの目はマンハッタンの南西の海岸にある小さな島、エリス島へと吸い寄せられた。半年以上前、彼はサリエル、フランツ、ダリヤとともにその島の移民局を通過した。もちろん、全員が別々の船で、できるだけ目立たないように身分を偽ってのことであった。かつてのエリス島は無政府主義者、犯罪者、狂人、馬鹿者を除いて誰にでも門戸を開いていたが、大戦によってアメリカの移民ブームはかなり冷え込んでしまった。1917年からドイツ船が接収され、1919年には「赤狩り」が起こり、入国規制が強化された。

しかし、そのイメージとは裏腹に、アメリカは他の国と同様に機能していた。それなりの資本があればチャンスへと繋がるどんなに錆びた扉でも開くことができ、フランツとダリヤの努力のおかげで、ヘルハウンダーズの金庫はかつてないほど貯蓄があったのである。大戦の惨禍と1919年の狂乱を乗り越えて、ついにアメリカの地に降り立った今年は、彼らの人生の新章、すなわち世界規模の革命の幕開けとなるはずであった。

ヴィトーはドーナッツの最後の一かけらを口に放り込むと、フラスクを傾け、またたっぷりと飲み干した。彼が正式にアメリカ国籍を取得し、ヘルハウンダーズが初めてのアメリカ人のメンバーを見つけた直後、禁酒法が施行された。決して良い年明けではなかった。酒の購入が難しくなったのは確かだが、何事にも抜け道はあるものだ。

モナコでサリエルとラム酒のボトルを空けながら、将来のことを語り合った夜の記憶が突然彼の脳裏に浮かび、動けなくなってしまった。ニューヨークに来てから、最後に酒を酌み交わしたのはいつだったか思い出せない。

ヴィトーはため息を吐いて前屈みになると、渋々とフラスクを閉じて立ち上がる準備をした。『感傷に浸る前に、そろそろ仕事に戻らねば。』

足をまっすぐに伸ばそうとしたとき、一人の女性が真正面から歩いてきた。小さな青いバラを並べたつばの広い黒い帽子が朝の光を遮っていた。彼女は手袋をはめた手をヴィトーに差し出し、優しく微笑むと、ベンチの反対側へ頷いた。

「この席は空いているかしら」彼女は静かに尋ねた。

「あ、はい、どうぞ」とヴィトーは気怠い笑顔を見せながら彼女を見調べた。

首には毛皮、胸元と膝には花柄の刺繍が施された紫色のベルベットのフロックに身を包んでいた。輪郭は丸く、堂々とした顔立ち、よく巻かれたストロベリーブロンドの髪、そしてがっしりとした体型は、高価な紅茶、長い敷物、徹底的に計算された8品のコース料理を想像させ、ひょっとしたら彼女は自分を誰かと間違えているのではないかと思わせるほどだった。彼女は椅子に座ると、ちょうど2人の間にある左側に、きらびやかなレースの財布を置いた。

「素敵な朝ね」この女性が誰であれ、親しげに話をするのが好きなようだった。「この季節のニューヨークは本当に美しいわ」

「ジェノヴァよりはマシだな」ヴィトーは笑いながら言った。「モナコには勝てないがね」

「やっぱりエキゾチックなところから来ていますのね。そうだと思ったわ」彼女は英国貴族のような繊細さで、音節のひとつひとつにアクセントをつけた。「イタリア人でしょ」

「まぁ、似たようなもんだ」ヴィトーは曖昧な答えを出してからジンを少し飲んで女性の好奇心に身を任せた。「サーカスが廃止された後にジェノヴァに取り残されてな。戦争のせいで。あの地獄みたいな街で酒に溺れ死にそうになったよ。貧困、疫病、死戦争後のイタリアにはそんなのがはびこっていた」

「ええ、存じておりますわ。アメリカから見習えばよかったものを。イタリアが戦争だけで過去50年分より多い資金を費やして政府が倒産したそうです。まったく残念なことだわ。最近は社会主義革命が起きそうな勢いなんですってねぇ」

ヴィトーは片方の眉をあげて彼女を見つめた。「あなたは情報通ですね」

「いいえ、私はリディアです」彼女は自信満々な笑顔を見せながら手袋を外し、柔らかく青白い手を差し伸べた。「あなたは?」

「ヴィトーです」と言うと、彼は自分の手を差し伸べて握手をした。その目が自分に好意を抱いているのか、それとも単に寂しがっているのか、わからなかった。しかし、この半年で学んだ通り、ニューヨークでは行き当たりばったりの会話は日常茶飯事だった。

「私はかつてパリに住んでいました」リディアが続いた。「家族が亡くなってから気分転換で引っ越そうと思ったのです」

「気持ちは分かる」ヴィトーは頷きながら、ジンが自分を饒舌にしているのを感じた。「オレの場合はギャンブルが唯一の救いだった」

「あら、プロのギャンブラーが隣に座っているなんて夢にも思わなかったわ」リディアは身体を引き込みながら目が嬉しさで光った。「ブラックジャック?」

「なんでもござれ」ヴィトーは続いた。「ダイス、カード、バカラ、競馬あの時は運の女神様が味方についてくれた。気づいたらモンテカルロのVIPと肩を並べて賭けていた。損する時もあったが、なぜかいつも悪い運を跳ね返すことができた。当時は自分の人並外れた賢さのおかげだと思っていたが

2人で笑った後にヴィトーがまたジンを飲んだ。今度はリディアの目線がフラスクの方へと向いた。

「その匂い、知っていますわ」リディアは悪戯な笑顔で言った。「頂戴しても良いかしら?」

ヴィトーは驚いて首をかしげた。「どういうこと?」一回、注意深く周りを見渡した。「まさか藪に警官が潜んでいるんじゃあるまいそれとも、ご主人?」

「いいえ、残念ながら、未亡人なんです」リディアがすぐに答えた。「そして警察官とはそりが合わないのです」

「思ったより共通点が多いんですね」ヴィトーはさりげなく言ってからフラスクを渡した。リディアは少しだけ飲んでから丁寧に返した。

「ありがとうございます。何の話でした?」リディアが赤い頬をつついた。「あ、そうだわ、モンテカルロ。実際に足を運ぶチャンスはありませんでしたが、フランス人はよくその華やかさを語っていますよ。元々グリマルディ家が政権の資産のために建てたでしたっけ?」

「またも当たりだな」ヴィトーが指を鳴らした。「正真正銘の観光地だ。モナコの市民は中に入ることさえ許されない世界中のあらゆる種類の裕福な外国人のパトロン、観光客や高官を惹きつけるように設計されている。オレはそこにいた間、かなりおもしろい人達とワインと食事をしたんだ。自分のスイートルームも借りたりもしたんだよ」

「嘘おっしゃい!」リディアが驚いて叫んだ。「まさか。嘘ですよね、ミスター・ヴィトー」

「いやいや、事実だって」リディアの尋常でない反応につられてヴィトーも大げさに掌を見せて肩をあげた。「言ったでしょう。しばらくは運の女神様が味方についてくれて、負ける気がしなかったんだ。夜な夜な目覚めて、それまでの24時間で何をしていたのかすら覚えていなかったが、とくに気にならなかった。まぁ、かなり楽しかったが、やはりどんなに楽しいことにも終わりは来る」

「負け始めたの?」

「あなたの勘がこれ以上鋭かったら、きっと強力な武器になるね」ヴィトーは誇らしげな微笑みを見せながら言った。「そうだ、オレは負けた。一度や二度でなく、何度も何度も。その過程で、オレは泥棒に入られ、騙され、徹底的に利用された。主に当時の恋人にだがおっと、話がそれた。とにかく、オレの金庫が空っぽになると、オレのいわゆる友人たちが言うほど、オレは面白くも愛すべき人間でもないことがわかった。結局、以前ジェノヴァでやっていたように、ゴミ箱からゴミを拾って生活するはめになったが、それに比べればモナコの街はきれいなものだった。オレは自暴自棄になった。復讐したかったからズルをしてみたが、うまくいかなかった。もし、親愛なる友人がオレの一番ダメな時に助けてくれなかったら、今ここにいないだろう」

「なんて悲惨な話でしょう」 リディアの顔と手はその持ち主の感情を生き生きと表現し、ヴィトーの言葉を大げさな反応で報いた。「最後は運に見放されたが、もしかしたら異世界の摂理と入れ替わって、今ここにいるのかもしれませんね」

「異世界の摂理だと?」ヴィトーは片方の眉をあげた。「神秘主義者とは意外だね、ミス・リディア」

「どのような相手と歩むことになっても、人間の世界には多くの力が働いていると思うのです。そして、自らの行動によってのみそれらと親和性を得ることができるのです」

「まあ、力があろうとなかろうと、感謝することがたくさんあることには同意するよ」ヴィトーはフラスクをコートの内ポケットに戻しながら頷いた。「実は、その幸運の源が今まさにオレを待っているところなのです。楽しい会話をありがとう、ミス・リディア。でももう行かなくちゃ」

「まぁ!今度は私の人生を語ろうと思っていたのに!」リディアは膝の上で両手を丸めた。

「そうか。そうなれば、オレの大口を謝り、もっと落ち着いた時に再び会うことができますように」

「そうだと良いですね、ミスター・ヴィトー。そして早く再会できるよう祈っています」

ヴィトーは立ち上がりながら左腕でネクタイを整え、リディアに満面の笑みを見せると、十分に彼女の気を引いてから右腕を出し、彼女の財布から何かを盗み取った。ヴィトーは迷うことなく、同時にリディアの前に移動してその品をポケットに入れると、腕を胸に当てて女性に丁寧なお辞儀をした。

「オールボワール」

「またね」リディアが嬉しそうに返した。

公園から数歩出たところでヴィトーが振り返ると、リディアはまだベンチに座っていて、上半身と頭を90度近く彼の方へと向けながら、彼が歩き出すのを見守っていた。先ほど見せたのと全く同じ笑顔を顔に浮かべ、手袋をはめた手を振っている。

『しかし変な人だったな』だがこの街では、そういう人物はまったく珍くない。おそらく、もう二度と会うことはないだろうし、リディアも来月の終わりまでには、ヴィトーに抱いた一瞬の関心も忘れてしまうだろう。それが人間というものだと、ヴィトーはよく理解していた。最初の角を曲がってブロード街に入ると、ヴィトーはポケットから盗品を取り出して目を向けた。小さな赤いビロードの小銭入れだった。残念ながら空だったが、質屋でいくらか金を稼ぐことができるかもしれない。

ヴィトーはゆったりとした足取りで、銀行や株式市場が充実していることから、アメリカ経済の新たな中心地となった金融街の中心部へと北上していった。『アメリカ、チャンスの大地だって』大戦に遅れて参戦したアメリカは、西ヨーロッパの手から栄光を奪い取り、富の川と変えて街中に流していた。

ブロード街とウォール街の角まで来ると、ヴィトーは帽子の海に沈んでいる自分に気がついた。ビジネスマン、トレーダー、銀行家、富裕層が、それぞれ好みのスーツと頭飾りを身にまとって、肩を寄せ合うように歩いていた。交差点の左側には、ニューヨーク証券取引所があった。コリント式の太い柱が高くそびえ立ち、株取引の施設というより神聖な礼拝堂のように見えたが、これはきっと意図的なものだろう。その向かい側には、アメリカ最大の金融機関であるJ.P.モルガンの本社があった。

ヴィトーは少し立ち止まって辺りを見回した。ニューヨーク証券取引所が別館を建設することとなり、足場が組まれたがそれでも金融街の広場はまだ広く、少なくとも数台の車が一度に通れるほどだった。ウォール街の北側、初代大統領の就任式が行われたフェデラル・ホールへの階段には、ジョージ・ワシントンの銅像が立っていた。銅製のセンチネルのように、その目はJ.P.モルガンのビルに向けられ、国の生命線を見張っていた。

『今日、ここで惨いことが起きるんだな』

ふと考えたことだが、やはり背筋がゾクゾクした。それを振り払いながらヴィトーはウォール街を西に向かい、J.P.モルガンのビルから離れ、トリニティ教会へと向かっていった。ブロンズ色でとげとげしい尖塔が並ぶゴシック・リバイバル様式の教会は、周囲の近代的な建物の中でひときわ目立っていた。その隣には、アメリカ建国の父、アレキサンダー・ハミルトンの眠る墓もある、趣のある墓地があった。

墓石の間を抜けると、教会の壁の向こうからオルガンの音が聞こえ、815分の祈りをささげる時間であることがわかった。しかしその時のヴィトーは祈りよりも、ミーティングにどれだけ遅れてるのかの方がずっと気になっていた。

『文句を言われたっていい。気持ちの良い朝の散歩をしていただけじゃないか。4時間も話すことないだろうに』

少し勇気が出てきたのか、ヴィトーは足早に教会の前を通り過ぎ、その後ろにある暗い足場の集合体、将来出来上がるビルの胎児を見つめた。ニューヨーク証券取引所の圧倒的な強さに押され、金融の中心地から姿を消した「マンモスの代替品」として知られるニューヨーク・カーブ・エクスチェンジはより大きく、より良い本拠地を建設し始めた。1921年に完成予定の本社ビルはまだ木造の板と鉄の棒や鉄の梁が迷路のように入り組んでいて、ヘルハウンダーズが次の作戦を決行するのに最適な場所であった。建物はウォール街とブロード街の角からは見えないが、双眼鏡で見ることができる距離だ。埠頭の倉庫と同じように、今日勤務していた建設作業員は易々と賄賂を受け取り、見て見ぬフリをしてくれた。

ヴィトーは通りを渡り、建設現場の裏口に通じる路地に入った。歩道から外れた途端に他の高層ビルに覆われ、目的地が見えなくなった。

「遅いじゃないか」ヴィトーが角を曲がるタイミングである低い声が聞こえた。

足場の暗い入り口の前に、チャコールの長いオーバーコートを着たサリエルが、両脇に拳を固めて立っていた。ヴィトーはリーダーであるサリエルを見ていると、口答えする気力が失せてぎこちなく身を縮こまらせた。さっきの反抗的な考えが恥ずかしくなり、自分の考えの甘さを責めた。しかしその反抗心も、うまくいかないと分かってはいるがいまだに拭いきれない。サリエルには返せないほどの借りがあるから、勝てる見込みもなければ交渉の余地もない。

「ごめん」ヴィトーはポケットに手を突っ込みながら静かに言った。

「今日は『ごめん』じゃ済まないだろうが」サリエルは一定したトーンで、石のように続いた。「馬車は確保したか」

「ああ、子供たちが見守っている」とヴィトーは即答した。「帰り道に朝食を食べようと立ち寄った所で、おしゃべりな女性が私の耳元で話し始めたが、心配は要らない。彼女は付いて来ていない」

「そうだと良いな」サリエルは一歩前に出て、ヴィトーの首筋を手で掴んだ。「忘れるなよ。妹と弟たちがどんなに強くなっても、おまえにはまだ重要な役割が残っている。さて、今日こそ主体性を発揮してほしい、ヴィトー。今回は恥をかかせるな。せめて他の連中の前では、な」

ヴィトーはサリエルの手から発せられる温もりを全身に感じ、モナコの記憶を呼び覚ました。サリエルがあの日、最後の暗殺者たちの体を粉々に砕いたとき、ヴィトーはその威力を目の当たりにした。いや、彼の拳は肉体的な強さ以上に彼の完全なる自由の象徴でもあった。神に選ばれし者は主を知らず、世界を支配下に置こうとする貪欲で腐敗した魂を排除するためには手段を選ばない。サリエルはその強さゆえに揺るぎなく、隙を見せず、そして何よりも不屈であった。サリエルは決して負けることがなく、決して間違うことがなかった。あの日、サリエルはヴィトーの命を救っただけでなく、彼に新たな生きがいを与えたのだ。

『彼は足りないものだらけのオレに、可能性を見出した』

「分かっている、分かっている」ヴィトーは首をふった。「約束するよ、サリエル。もうガッカリはさせないから」

「そうだと良いな」サリエルはヴィトーの肩から手をとって闇の方へ向いた。「ついてこい、ヴィトー。話は山ほどある」

 

2

SARIEL

 

サリエルとヴィトーが工事現場の中を通り抜けると、わずかな光が差し込み細く長い影を落としていた。サリエルは奔放に前へ進み、ヴィトーは帽子を取ってぎこちなく周囲を見回した。一階に座っていたのは、彼らが買収した工員たち。高価な酒を飲み、トランプに興じる彼らのほろ酔い顔には笑みが浮かんでいた。その中の一人がサリエルに目をやったが、サリエルは軽く頷いただけで先に進んでいった。

サリエルはヴィトーを押して、上階へ続く梯子に向かった。建物の外側は鳥や害虫の侵入を防ぐための暗いシートで覆われており、外骨に漂う暗さをさらに増していた。板やパイプが無造作に組み合わさった場所を慎重に登っていくと、車の往来や叫び声などの外の音も小さくなり、会話ができるようになった。

サリエルは仲間の顔に目をやった。ヴィトーの肩まである茶髪は、いつものようにポマードで後ろに流され、少し後退した生え際が見えていた。今まで経験してきた苦労にしては、彼はまだ若く見えた。ヴィトーはいつも身だしなみを整え、衛生面にも気を配っていた。しかし今日のヴィトーの顔から滲み出る不安は、どんな手入れを施しても隠せないとサリエルは思った。頭皮から額の微妙なシワに汗が流れ落ち、唇は苦渋に満ちた表情で張りつめていた。

ヴィトーは明らかに不安そうだった。何かに動揺しているのか、それとも緊張しているのか。結局のところ、それはどうでもいいことだった。才能を持ってはいるが、ヴィトーは弱い精神の持ち主だった。たまには誰かに背中を押してもらわないと何もできない。サリエルは後押しをすることは幸いにも得意で、今日も大成功を収めるつもりだった。なにより、失敗を許すつもりはなかった。

「もう俺に話すことはないのか」闇の中を歩きながらサリエルがつぶやいた。

「いやごめん」ヴィトーがすぐに答えた。「なんだか頭がいっぱいみたい」

「なら空にする準備でもしておけ。部屋にたどり着いたらフランツの説明が始まる。そういえば、マリス注入の覚悟は決まったか?」

ヴィトーは返事をしなかった。肯定的な答えはおろか認識もされないことに、サリエルは全身に苛立ちが走り、口の端が歪んで唸り声が漏れた。

「答えろ。今すぐに」と、サリエルはヴィトーの行く手を阻むように一歩踏み出し、返答を強いた。ヴィトーは視線を避けながら彼の周りを歩こうとしたが、サリエルはその首の後ろを掴み、身動きを取れなくした。

ヴィトーは長い溜息をついた。「この話は明日にしよう。最近ずっと不安な気持ちが拭えなくて」

「前のミッションの時もそう言った」サリエルがすぐに遮った。「もう一度聞こうか?」

サリエルはヴィトーの眉間に反抗の気配を捉えた。彼は明らかに「最も安全な」返事を考えようと頭を悩ませており、それがさらにサリエルを苛立たせた。

「質問してるんだぞ、ヴィトー」サリエルの目は怒りで燃え、顎は憤怒で震えていた。「俺のことをバカにしたいのか」

「い、いや、まさか」ヴィトーは髪の毛をかき上げながら不安そうに言った。「役に立ちたいよ、本当に。だから今回もできるだけ下準備を自分からしようと

「それでもまだ弱いな、ヴィトー」サリエルは続けた。「その酔っぱらいの顔は、戦後にカイゼルが退位するときに見せた、子羊じみた笑みと同じものだ。あの腐れ道化師は負けるべくして負けたのだ何の言い訳もなく。それであの国を見てみろ。不安定な民主主義の混乱。全ては一人の男が、なすべきことをなす力を欠いていたためだ。もう二度とそんなことは起こさない、ヴィトー適切な人物が力をふるえば、ね。新しい世界秩序が生まれる時、俺と共に立ち上がりたいのか?もしそうなら、大きな力が必要になる」

ヴィトーが目を上に向け、必死に頬をつり上げて懇願しているのが見える。「でも

「黙って聞け」サリエルは答えた。「昨年は俺もこの新しい技術の可能性を十分に理解していなかったからこそ、心配しているお前に決断を迫らなかった。だがダリヤやアックスマンはもちろんのこと、俺自身の身体もこの技術の素晴らしさの証拠となっているはずだ。お前のちっぽけな体では到底できないことが、彼らは指一本でできるようになった。もし我々と歩み続けたいのであれば、我々が肉を捧げたように、お前も肉を捧げなければならない。もしそうしないならお前が言うようにお前は俺を信頼していないと知ることになるだろう」

「信頼しているよ」ヴィトーは掌を開いてアピールした。「本当だよ、サリエル、ただ

「いや、していないね」サリエルがきつく言った。「以前は信頼していたかもしれないが。モナコで命を救った時とか。貨物を爆破した時もそうだったかもしれないが、
お前はあの9月の夜、何かを失った領事館で起こったことをすべて話した後に」

「何を言っているんだ?」 ヴィトーの顔は狼狽えているようにも、同時に目を細めているようにも見えた。「サリエルが戻ってから何週間も世話をしてあげたじゃないか。話しかけてあげた、面倒を見てあげた、サリエルの代わりに涙さえも流してあげたどうしてオレがあなたを信用してないなんて思うんだ」

「そう、お前は俺にとてもよく仕えてくれた全てを話せと言うまでは、ね。俺が流した血と生み出した恐怖について話した時、お前の顔が青ざめるのを見逃さなかった。お前が言う『無実な人』が殺戮に巻き込まれたことを聞きながらお前は震えていたね。言われた通りにしなかった彼らのせいなのに。それから、俺は引き下がることを拒否したボディーガードの話をした。お前はきっとその部分も忘れていないだろう」

「もういい」ヴィトーは手をあげた。「もうこんな話したくないよ。少なくとも今は無理だ

「まただ」サリエルは嘆いた。「顔が変わったな。驚きと、それに続く嫌悪感。あの表情は忘れられない、ヴィトーお前の忠誠心を奪うにはどうすればいいかさえ分かったらな。」

サリエルは思い出すだけで怒りが沸き上がった。右肩と右腿が疼き、あるはずの無い痛みが呼び起こされ、それさえなければ完璧に近い自分の顔の右側にある傷跡が憤怒で引き攣った。足元の木が軋むのを感じ、マリスが血管の中で渦巻いていた。

「もう二度とあんな反抗は許さん」サリエルは続けた。「死の淵から救い出したお前からならなおさらだ、ヴィトー」

ヴィトーは震えていたが、サリエルは自分の赤い熱気を静めようとはしない。しばらくうずくまった後、ようやくヴィトーは深呼吸をして首を横に振った。

「わ、分かったよ」ヴィトーは震え声で言った。「今日のミッションが終わったらすぐにすぐにオーゲン博士にマリスの注入を頼むよ」

「そうしろ」サリエルは満足したように頷いた。「さぁ、先を急ぐぞ」

さらにしばらく登ると、サリエルは3面を木の板で囲まれた広々とした部屋にヴィトーを案内した。木の板で覆われていない面の壁はトリニティ教会の裏側に位置しており、ウォール街とブロード街の角がよく見えるように、被せられていたシートに数個の穴が開けられていた。

かろうじて形になっている建物の中の仮設部屋であるにもかかわらず、その空間にはアックスマンが運んできた家具が小ぎれいに配置されていた。中央のテーブルには書類と食料。その横には文机と食器棚、そしてアイスボックスには水とジンジャーエールが用意されていた。

サリエルはまず、ダリヤ・ニコラエヴナ・サルチコバに目を向けた。彼女は左隅の窓辺に座り、眉根を寄せて冷淡に街を見つめていた。片方の肘を窓辺に置いて顎を上げ、もう片方の肘を腹に当てて、そこに潜むものを温めていた。背の高い彼女は首から手首まで豪華なドレスに覆われ、耳にはマリスが凝縮された菱形の破片が2つ、柔らかな光を放つイヤリングとしてぶらさがっていた。復活した貴族の態度は確かに辛辣だったが、幸いなことに彼女は集団内の議論や反抗に対しても等しく無関心だった。彼女の目的はただ一つ、博士が彼女を生き返らせた時からはっきりとそう言っていた。その目的が達成されたら最終的にヘルハウンダーズが強化されることになる。そのためサリエルは彼女の苛烈な性格を抑制する必要はないと考えていた。

次に、サリエルは部屋の中央に置かれたテーブルの片隅に座り、真新しいノートに何事かを書き込んでいる猫背のアックスマン見つけた。いつもの事ながら髪も髭も自伸び放題だ。白いシャツに茶色のサスペンダーをつけ、腰には光沢のある手斧をぶら下げていた。そう、彼は実に質素な男だった。身長は2メートルを優に超える自称作家が小さな木の椅子に座り、細いインクペンをその巨大な指の間に挟んでいる姿は滑稽に見えたが、サリエルは彼を馬鹿にするつもりはなかった。ヘルハウンダーズの中で最も若く、新入りのメンバーであるアックスマンは、自分を印象付ける術を探し求めていた。彼のその性格は非常に有用な特性である。短気とはいえ、サリエルが権力と変革を求めるのに対し、アックスマンは受容と承認のみを求め、サリエルも博士も新しい解体屋を喜んで迎え入れた。

サリエルとヴィトーが部屋に入ると、ダリヤは微かに視線を向け、アックスマンは温かな笑みを浮かべてノートから顔を上げた。ようやく右側の隅に木箱の上の機械仕掛けをいじるのに夢中になっている博士の姿を見つけた。

「ヘル・ドクトル」サリエルがドイツ語で挨拶した。「待たせて済まない」

「おぉ!」フランツ・オーゲン博士は、皺を刻みながら唇を歪めて歯を見せて笑った。「サリエル、ヴィトー」彼はそう言って、軽く会釈をした後、すぐにサリエルに視線を戻した。「さて、いよいよ始めるか。昼まであと3時間しかないんだぞ!」

身長188センチのサリエルは自身について背が高いと思っていたが、フランツはそれに並ぶほどの身長だった。長身で細身、ポケット付きの白衣とスパイクブーツに身を包んだ博士は、研究、発見、実験の3つしか頭にないことを隠すつもりなど毛頭無かった。サリエルはアイデアを、フランツは手段を提供した。フランツに命を預けることができるのは、サリエルの体の半分が博士による最新傑作の一つになっていたからだ。

「そうだ、時間がない。テーブルの周りに集まれ」とサリエルは命じた。「そろそろ、今日起こることを一つ残らず説明しよう」

ダリヤは無気力に窓際から移動してテーブルの北端に座り、アックスマンはただ背筋を伸ばして話を聞く準備をした。オーゲン博士は西側、サリエルが立っているすぐ隣の席に座り、ヴィトーは隅にあった椅子を南側に引きずるように置いた。上着を脱いで、博士が作ったコルセット付きの革製戦闘服を見せると、サリエルは少し間を置いて、部下を見下ろした。ただ一人で立っているのはわざとだった。

「俺はあの日、安易な欲望がドイツの栄光を完全に破壊したのを目の当たりにした」

「その通りだ、全く嘆かわしい」フランツが拳を木のテーブルに叩きつけた。「今じゃよりによって共和国と名乗りやがって..我々の遺産…我々のテクノロジーをコケにしやがって!」

「あれは解放のための戦争でも、平和のための戦争でもなかった。トップの太った老人が、私欲を肥やすためにさらなる権力の掌握を望んだんだ」

サリエルはテーブルの端にあったマニラ封筒を取り出し、中からマンハッタンの地図を取り出してテーブルの中央に置いた。桟橋4番倉庫を目印に、ウォール街とブロード街の交差点につながる道を線で結んだものだった。

「今日、奴らを痛めつけよう」サリエルははっきりと言った。「我々の行為だけが我々を物語り、世界の人々は我々を止められない自然の摂理として見るだろう」アドレナリンの分泌を感じながら、サリエルは指でルートをなぞった。「今日の正午、この交差点に荷車を走らせ、アメリカの地が経験したこともないような爆弾を爆発させる」

 

3

FRANZ

 

フランツ・オーゲン博士は、普段は言葉数の少ないサリエルが力強く話すのを嬉しそうに眺めていた。2人が悪と貪欲な者に死を与え、このクソみたいな世界をより良い場所へと変えるためにと力を持つ者を集めた集団「ヘルハウンダーズ」を結成してから、長い年月が流れた。

最初の内は戦争で得た利益を運ぶ船を爆破したり、汚職に手を染めた政府関係者を暗殺したりと、小さなことから始めていた。しかし、そのうちに小さな蛇が頭を失えば、別の蛇がその座を奪っていくことがわかった。19198月、フランツは英国領事館での騒動でサリエルが永遠に失われてしまうのではないかと心配していたが、神の貴公子は約束通り、ミュンヘンのトゥーレ協会本部を破壊し、盗んだ研究資料を抱えて戻ってきた。フランツは大喜びだった。それは単に新しいオカルト技術を手に入れたということだけでなく、フランツの入会を禁じていたドイツのエリート学者達に致命的な打撃を与えたからだ。彼らもまた金の亡者であり、最終的に自分たちに多くの富をもたらすものだけを求めていたのだ。やがて世界はフランツが戦争のために開発したガスよりもはるかに強力な兵器の恐怖に震え上がり、誰もそれを止めることはできなくなるだろう。

フランツはサリエルの言葉を胸に刻み、高揚した笑みを浮かべて味方を見つめた。ダリヤの表情は変わらず平然としていたが、それが彼女の性分なのだろう。アックスマンは感極まった様子だった。ヴィトーは戸惑いながらもヒップフラスクを顔に近づけていた。

「質問はあるかね」フランツが言い出した。「人によっては情報量が多すぎることは百も承知だが」

「なぜ私がここに呼ばれたのか、まだ分からない」ダリヤがすぐに答えた。

「説明はそのうちしよう」サリエルが静かに答えた。「他は?」

「俺はどう役に立てるのでしょうか?」アックスマンが楽しそうに聞いた。「そして、こうやってこの革命的なミッションに参加できるのは本当に

「ちょっと待って」ヴィトーは目をぎょろぎょろさせながら遮った。「そもそもどんな爆弾なんだ?今朝、交差点を通りかかったら人で溢れかえっていた。ビジネスマンや戦争で儲けた人たちだけじゃない、女性や子供たちもいたんだよ」

「おやおや!」フランツが身体を横に回して、サリエルを驚いたような笑顔で見上げた。「サリエル、どうやら彼は市民の身を案じているみたいだね」

サリエルは驚きの混じった息を吐くと、ジンをもう一杯飲んだばかりのヴィトーに自信に満ちた目を向けた。「正しい教育を行うためには、ショック療法しかない。恐怖でのみ真実に目覚めることができる人がいるのだ」

「いかにも」フランツが同意した。「まぁ、罪のない大勢の市民から奪ったり騙したりしてきた奴の口からそんな意見が飛び出してくるとはおかしなことだね。あの夜、アックスマンを追う多くの警官たちを皆殺しにした時にはこんな疑惑を抱かなかったはずだぞ?ヴィトー?」

「そうでした!」アックスマンが急に叫んだ。「そう言えばあの夜、あの完璧な射撃に対してまだ何一つお礼がまだ

「そんなことはどうでも良い!」ヴィトーはイライラしながら腕を振った。「あいつらは武装していたし、アックスマンは一人だったし。オレもみんなと同じように権力を握っている豚どもが嫌いだよ?資本主義は悪だと思っているけどよこれはちょっと違うんじゃないか?ただメッセージを伝えるためだけに罪のない市民まで殺すとなると、誰が応援してくれるんだ?」

「その心配なら無用だ。強さを目の辺りにした者は誰だってすぐに跪く」サリエルが自信満々に喋った。「さぁ、ミッションの第二段階の話はまだこれからだ」

「でもどんな爆弾なんだ?それぐらいは教えてくれたっていいじゃないか」ヴィトーが続けた。

「あ、そうだ!」フランツの眉と頬が嬉しさで皺を引き上げた。「ワゴンには100ポンドのダイナマイトと 500ポンドの鉄製の重りが積まれている。ああ、もちろん、どれもマリスで徹底的に塗り込まれてある。タイマーがゼロになるとダイナマイトが爆発し、重りが粉々に砕け散り、マリスのおかげでありとあらゆる方向に見事なまでに炸裂するはずだ。そう、J.P.モルガンのビルの窓も部屋も、この殺戮から逃れることはできない。戦時中以外では、どんなアメリカ人も見たことのないような破壊的な一撃となるだろううむ、ガレアニストが成し遂げたどんな功績よりもはるかに大きい、と付け加えておくべきだろう」

「まだそんなことを気にしているのか?!」ヴィトーがジンを飲んでから大声で反論した。「イタリアのイカれたアナーキストが協力を拒んだから出し抜こうとしてるだけなのか?」

「やつらがどんなにいいチャンスを逃したのかを知る良い機会となるだろう」サリエルは腕を組みながらテーブルを見降ろすように言った。「そしてアメリカ国民に爆破のメッセージを送ることがミッションの半分に過ぎない」

サリエルはマニラ封筒から2枚の写真を取り出し、テーブルの上に並べた。1枚目には、白髪で長方形の輪郭をもつ着飾った男が写っている。顎が目立ち、不機嫌な顔を見せる彼は写真の中で見えない対象を睨みつけていて、かなり扱いづらそうに見えた。次の写真はもっと若い男性で、茶色の短髪、楕円形の大きな目、丸い顔に少しにやけた表情を浮かばせていた。

A・ミッチェル・パーマーとジョン・エドガー・フーバー」サリエルはその人物の名前を告げた。「米国司法長官とその忠実な番犬だ。噂によると、彼らは今週、捜査局の新入りを訓練するためにワシントンDCから訪れているそうだ。今日、神のご加護のもとに2人とも始末してしまおう」

「パーマー襲撃を指揮した男たち」 細部まで読めるように、アックスマンは大きな体をテーブルに預けた。「ああ、新聞で読みましたよ。嫌な奴らだ」

「ダリヤ、君は輝かしい歴史を知らないだろうから、ちょっとうーん、かなり省略して説明することを許してくれまえ」フランツはニヤリと笑いながら、彼女にアメリカのトリビアを教えようとするところだった。

ダリヤは鋭い視線を送った。「どうでも良いので飛ばしてください」

「ダリヤ、聞け」サリエルは、砂利と柔らかいバリトンを混ぜたような声で言った。「可哀想な博士の機嫌を取ってやってくれ。ヴィトーの記憶も曖昧だろう」

「彼らが誰なのかちゃんと分かっているよ!」ヴィトーがジンを飲みながら叫んだ。「どれだけ馬鹿だと思ってんだよ!」

サリエルは右の掌を開き、まっすぐギャンブラーへと向けた。ヴィトーは目を見開いた。そして、エネルギーの爆発がフラスクに叩きつけられ、ヴィトーの手から弾き飛ばんだ。ヴィトーは何も言えずに固まった。ショックで咄嗟に反応できないようだった。

「お前が馬鹿だとは思っていない」サリエルが言った。「ただの酔っ払いだと思ってる。そして今、博士がお前に集中することを求めている」と付け加え、アックスマンとダリヤの方をちらりと見た。アックスマンは大きな腕を組んで姿勢を正し、ダリヤはため息をついて椅子に腰を下ろした。

「どうぞ」アックスマンが柔らかい笑顔で言った。「この外人嫌いの2人について、先生がどんな新情報を得たのかぜひ聞いてみたいものです」

フランツは咳払いをして、アックスマンに礼を言うと、自分の話を始めた。ちょっとした混乱を招いたにもかかわらず、フランツの気分は軽快なままだった。何しろ、なにもかもが面白いのだ。大事な子供たちに、特に、復活したばかりのダリヤには本気で怒ることなど考えられなかった。今のところ、彼女はフランツにとって娘同然の存在で、彼女の機嫌が悪くても微笑ましく思えるのだった。一方、好奇心旺盛な少年の心を持ったアックスマンだ。アックスマンは忠誠心だけでなく力も優れており、フランツが研究中に抱いた最大の期待をはるかに超えていた。

しかしどんな家族にも面汚しは存在するそしてヘルハウンダズの場合は、まだマリスの実験に身を投じていない唯一のメンバーであるヴィトーであった。ヴィトーの救いはその完璧な射撃技術であり、フランツは彼の魂にマリスを注入することで実現できる可能性を夢見た。この時点ではこれまでの作戦がすべて大成功に終わり、ヴィトーからの拒絶はもはやフランツのプライドを傷つけるものではなかった。それはむしろ愚かさの極みであり、サリエルには事態を変えるべきであると既に話していた。

フランツはテーブルの上の写真に視線を戻した。「さて、ファイティングクエーカー、またはクエーキングファイターとも呼ばれる現司法長官、パーマーから始めましょう。この数年、各州で移民排斥の気運が高まり、パーマーはこの運動の先頭に立った。彼とその賛同者はエリス島の厳格化にも成功し、私たちが移民する際には何度も頭を悩ませられた。彼のプロパガンダによってますます多くのいわゆる『愛国者』が、ユダヤ人、イタリア人、ドイツ人、社会主義者、あるいは最悪の場合、共産主義者といった『ハイフン付きのアメリカ人』への恐怖を募らせている。

もちろん私たちのように教養のある者は、それが労働組合を統制し、貧しい人々を労働に縛り付けるための隠れ蓑だと分かっている。ストライキや組合闘争は、アナーキストや共産主義者、極悪非道な移民というイメージと結びつけられ、公正な賃金という概念を完全に異質なものにアメリカの魂を冒涜しているという考えに変えてしまう。経済活動の邪魔になるような面倒な考え方は許せないんだろう。最近では、人々は裕福でない隣人よりも大企業を優遇することで『アメリカらしさを示す』ことが奨励されている。もちろん、ガレアニストたちも愚かな手紙爆弾で事態を悪化させてくれたがイタリア人は我々と同様に資本主義に反対しているが、彼らの方法と組織には大いに不満が残る。そう、彼らはビジョンや統一性に欠けている

いやはや、また話がそれてしまった。いずれにせよ、1919年末からパーマーは、人とは違う意見や経歴を持つアメリカ市民を何百人も拘束する集団捜査を立ち上げた。捜査を実行し、『過激派』と呼ばれる可能性のあるあらゆる種類のグループを煙に巻くように仕向け、全ての糸を裏で引いていたのは捜査局のフーバーだった。司法長官とその忠実な助手パーマーは、捜査局に自分の汚れ仕事をさせることに何のお咎めもないようだった。彼らは650人以上を逮捕したが、43人しか国外退去させることができなかった。数の大小はともかく、彼らはアメリカ国民に全ての移民は敵だと思わせ、あらゆる意見の相違に心を閉ざし、それが彼らの生活に危険をもたらすものだと確信させたのである。

パーマーとフーバーのバカ騒ぎは今年5月に頂点に達し、アナーキスト連合によるアメリカ政府転覆の企てに備えるとか何とか言って、ニューヨークの警察を総動員してパトカーに機関銃を搭載するよう、どんな手を使ったのかは知らないが説得していた。しかし当然のことながらそんな事態は起こらず、2人はかなりバカを見た。その失態にもかかわらず、パーマーはこの夏あろうことか大統領選に出馬した。ああ、本当に世も末だね」

「今日の我々のミッションはアメリカの未来のためにある」サリエルはそう言って、奮い立たせるように指を突き出した。「我々がヨーロッパに残してきた後進的な土地のように、自ら崩壊するのを防ぐためだ」

「でも、今日2人が必ず現場に来るってどうしてわかるんだ?」
突然飲み物を失ったにもかかわらず、落ち着いた様子でヴィトーが尋ねた。

「いや、2人はきっと来る」フランツはゆっくりとうなずきながら言った。「うむ、私を信じてくれ、彼らは必ず来る。2人ではなかったとしても、どちらかは必ず。2人がこの近くにいるしほら、ガレアニストたちも既に何度もパーマーの命を狙っているじゃないか。哀れで実りがなかった試みだったかもしれないが、クエーカーのプライドをこれ以上ないほど傷つけたはずだ。そして先ほども言ったように、この爆弾はガレニストたちの原始的な作品をグレードアップさせている。こんなに象徴的な場所で、こんなに惨いテロ攻撃の知らせを受けたとき、2人のニューヨーカー的にはずうずうしさとでも言うかな?いや、いや、あの2人ならその地位に甘んじることを許さないだろう」

サリエルは金属製の指で地図をたたいた。「爆弾が爆発した後の交差点は大混乱に陥るだろう。我々はここから監視し、ヴィトーは戦略的に有利な位置に移動して、ターゲットが現れたら狙撃しろ」

「何を使って?」 ヴィトーは振り返り、部屋を外から遮蔽している黒いシート越しにちらりと見た。「あの交差点に普通のライフルで確実に狙撃できるわけがない」

「ああ、そうとも」サリエルが同意した。「普通のライフルなら到底無理だ。そうだろう、ヘル・ドクトル?」

「ああ、いかにも」フランツが楽しそうにポケットからマリスキューブを取り出して掌に載せた。

部屋に差し込むわずかな朝の光で、キューブの滑らかな表面に沿ってその深い紅色がキラキラと揺れた。フランツの腕から赤いヒビが広がるとキューブにエネルギーが集中し、完璧に均一だった形が崩れていく。カチッという音とともに、立方体の小さな正方形が飛び出し、ねじれ、反り返り、互いの周囲で渦を巻くように分離していく。キューブは無数の小さな立方体に分解され、飛び交い、フランツが亜空間に保管していた何かを召喚するように、立方体との間でマリスの細いビームを交互に出した。数分後、キューブは再び完全な形でフランツの手に戻り、テーブルの上には琥珀色で脈動する歪な生物が載っていた。

しばらく困惑してそれを見つめていたヴィトーは立ち上がり、嫌悪感に震えた。「ななんだ、あれは?」

「新しい武器だ」フランツは、骨のように曲がった生物の胸部を撫でながら、誇らしげに告げた。「異世界からの贈り物だ。私はこれをファラゴーと呼ぶことにした良い名前だと思わないか?」

名の通り、その得体の知れない生物には様々な部位が混ざり合っていた。その琥珀色の背中は、てんとう虫のように外側にカーブした2つの硬い甲羅で構成されており、どうやらもっと柔らかな部分を保護するためのもののようだった。頭部で最も目を引く部分は、そこから捻じれるように立ち上がった2本の出っ張りで、人間の耳のような曲線と肉質を持っている。その2本の間には、フランツがヴィトーの作業を補助するために生物の体に直接釘で打ち付けたライフル銃に取り付けられているような軍用スコープがあった。その生物に目が合ったとしても顔の大部分はクマムシを思わせる完全な円形のチューブ状の口が占めているため、分からなかっただろう。顎からは2本の大きな肉片が、細く棘のある昆虫型の脚まで伸びていた。脚の一本一本が数本の革ベルトで縛られ、その生き物の自由を奪っていた。それは拘束され、何が起きているのか分からないままただそこに横たわり、静かに呼吸をしていた。

「うむ、16本も脚があるんだ。すぐに拘束が必要になった」とフランツが臨床的に説明をした。「精度向上のため、最新式のスコープを取り付けさせてもらった。肩や膝の上など、好きなところに設置したまえ。腹部を刺激すると太く長い針が飛び出す。遮るものが無ければ50マイル以内の標的に届くだろう。そう、 パーマーもフーバーも串刺しにされ数秒で死ぬだろう。そして誰もどんな道具が使われたのか分からない」

「そんなものを肩に乗せていて集中できると思うのか!」 ヴィトーは叫んだ。「もういい。こんなの絶対におかしい!最初から2人が何を企んでいるのか話してくれれば、拒否していたはずなのに!!そうだろ、2人とも!」ヴィトーがそう言って、ダリヤとアックスマンに向き直った。「そうだろ?」

「なぜ私まで呼ばれたのか未だに教えてもらっていないんだが」ダリヤが怒りを隠すことなく言った。

「なぜ、だって?ダリヤ」フランツは小さく笑い、自分が侮辱された事を強調した。「君ならとうに理解していると思っていたが。爆弾、殺戮、混乱とてつもないマリスの力がここに満ちゆくのを想像してほしい。君と君の赤ん坊に我々の努力の成果を享受する機会を与えなければ、博士の名前が廃るのではないか」

「フン」ダリヤはフランツの漏らした小さい笑いを返したが、腹を撫でる手をフランツは見逃さなかった。きっと今にも、この一日だけでどれ程の栄養を取れるのか想像していたに違いない。

「アックスマンには万が一の際の警備を頼む」サリエルは続けた。「下の作業員たちが詮索好きな奴らを追い払ってくれるだろう。だがもし、捜査局や警察が侵入してきたらおまえが防衛の最前線に立て。この世界におまえに対抗できる警察組織などもはや存在しないはずだ」

「喜んで」アックスマンは答えた。「去年の正月にあの野獣どもにやられた仕返しをしなくては」

フランツはテーブルから立ち上がった。「そして私はこの荷車を目的地まで運ぶとしよう。爆弾の設計者として当然の事ではないかね」そして、コートの胸ポケットから懐中時計を取り出して、ちらりと見た。「午前11時を回ったところで、全員持ち場についた方がいいだろう」

「オレも同行する」ヴィトーがフランツに言った。

これには博士が困惑した。「一体何のためだ?まさか、私の運転が下手だとでも思っているのかね?」

「いや」 ヴィトーの鼻は赤く、ジンがまだ抜けていないようだった。「ジョージーとクラレンスを雇ったのはオレだ。報酬を支払わないと」

「ハ!」 フランツは一度だけ笑った。「心配するな小僧どもには銭をきちんと払うよ。その間、君はこれから起こることへの心の準備に専念すべきだ」

「その通りだ」サリエルは歩み寄り、ヴィトーの肩に重たい両手を置いた。「集中しなくては、ヴィトー。手を貸してやろう。身体と心の緊張を解かないといけないだろう?」

フランツはいつもの事ながら、ヴィトーの拒絶の意志が再び溶けて無くなっていくのを見届けた。フランツも最初の内は酔っ払いに狙撃手をやらせることに抵抗があったが、素面のヴィトーがいかに神経質になっているかを知ってからは、すぐに考えを改めた。滑稽なことにあの神経質な男がリラックスするためには、徹底した精神的な安心感と、大量のアルコールが必要だったのだ。永遠に続く、哀れなほど人間臭い軋轢のサイクルだったが、それも役に立つ時もあった。

フランツは皆に別れを告げると、作業に必要な道具を集めて玄関へと移動した。

「ではまた午後に」フランツが元気よく呼びかけた。「忘れるなよ、諸君今日、我々は歴史を作るのだ!」

 

4

AXEMAN

 

フランツが退室すると、サリエルは3人に双眼鏡を渡し、これから建物周辺の最後の点検に出かける事を告げた。アックスマンはリーダーの熱意に感心した。サリエルはどんな時でも疲れを知らないようだ。サリエルのすました頬を見れば、常に体と意識を働かせていることは明らかだった。

アックスマンはテーブルの上にあったパンとチーズを食べ、窓際に移動して双眼鏡を構えた。シートの穴の前に座っていると、外の建物や人々がよく見える。空には明るい太陽が輝き、ランチタイムを迎えようとしていた。そして、金融街の通りには帽子の川が流れていた。

アックスマンはニューヨークを気に入っていた。そこはアメリカの芸術文化の新しいるつぼであり、ニューオリンズのストーリーヴィルが閉鎖されて以来、彼がずっと探していたような場所でもあった。アーティストやミュージシャンが街中に集まり、ジャズの宝庫を作り出していたのだ。ニューヨークに到着して以来、アックスマンは暇が出来ては頻繁に街に繰り出した。酒場からクラブ・デラックスまで、思い出せないほど多くの店を訪れ、信じられないほどのインスピレーションを得てきた。この半年間で、アックスマンは5冊以上の小説を書き上げ、その中には自分の人生観や人間観を鮮明に綴ったものも含まれていた。そしてオーゲン博士による精神療法の申し出は、アックスマンにとって最高の癒しとなっていた。トラウマは薄れ始め、定期的にマリスを注入することで生まれるエネルギーのおかげで、彼はここ数年で最も良い気分になっていた。

新しい姉弟と一緒に窓際に腰を下ろしてオーゲン博士の姿がないか、熱心に通りを探した。ブロード街とウォール街の交差点は、株式仲買人、自動車、そして点在する屋台で賑わっていた。その一人ひとりが金の亡者だというのに。オーゲン博士とサリエルが雄弁に語っていたように、一儲けするために自分の子供を犠牲にし、世界中を戦争に巻き込もうとする怪物たちだった。

ヴィトーはアックスマンを突っついた。「アックスマンもさっきは言いたいことが一つぐらいなかったのか?あんただって罪のない人々を大量に殺してきたと知った時には発狂したんじゃなかったのかよ」

アックスマンは長いため息をつき、双眼鏡を下ろしてヴィトーを横目で見た。背の高い大柄な男はジンの入ったフラスクを飲み干し、椅子に腰掛けて脚を組み、片肘を木の梁に乗せてバランスを取っていた。アックスマンがヘルハウンダーズに入ってからというもの、ヴィトーは驚くほどの気遣いと親近感を示してきたただし、それは彼が素面のときだけで、日を追うごとそういったケースは稀になりつつあった。ヴィトーがサリエルに反抗し続ける理由も、アックスマンにはよくわからなかった。彼の反抗的な態度は絶え間なく続くものでは決してなかった。それは酒が入った時に見せる機転のなさと同時に、奇妙な爆発を起こすようだった。

「ああ、確かに俺は狂気の淵に落ちた」アックスマンが答えた。「だがサリエルの話を聞いていなかったのか、ヴィトー?これは大義のためなんだ。世界にメッセージを送るためだ、過ちを正すという名目で。そして、死んだ者たちの怒りは生き続ける。
彼らのマリスは刈り取られ、俺たちの炎の燃料となる」

「そんなもんかな」ヴィトーが一瞬だけ双眼鏡を覗いてから不快感を顔に浮かべ床に叩きつけた。「みんなが文句なしで賛成しているなら頭がおかしいのはオレの方だよな

「サリエルが一度でも間違ったことがあるか?」アックスマンが喋りながら道を見張った。「厳しくする時もあるがそれも俺たちを愛するが故のことだ。俺たちの進歩を望んでのことじゃないか」

「彼はそう言うけど」ヴィトーが間を入れてから言った。「それでも、言われた通りに動いている時しか、愛されていないと感じる時もあるんだよね」

不気味な静けさが部屋を覆った後に、アックスマンは左からの物音に驚いた。朝からダリヤはいつものようにずっと黙っていたが、彼女の方からの突然物音が聞こえてきただけでアックスマンは緊張し始めた。彼女の能力は以前の隠れ家で一度だけ、まったくの偶然で垣間見たことはあったが、体中の毛を逆立たせるには十分すぎるほどだった。

ダリヤはアックスマンやヴィトーに目もくれず、アイスボックスまで歩いていき、自分の水筒を取り出した。それを淡々と飲み干すと、テーブルに移動し、自分の分の食料を集めてシートの前に戻った。そしてついに、彼女を見つめる2人の視線に気が付いた。

「聞かれる前に答えてあげる。どうでも良い」ダリヤはだるそうにそう言うと椅子に腰かけた。「私がここに居る理由はマリスのため、それだけ」

ほどなくしてパトロールから戻ったサリエルがシートの前で3人の仲間と合流した。そして、これから起こるであろう計画の大成功について熱心に語りながら、ダリヤとヴィトーにアックスマンが書いたチラシを見せた。アックスマン自ら考えた「アメリカン・アナーキスト・ファイターズ」は、この革命から生まれることが予想される市民グループの名称であった。チラシにはサリエルの言葉からのヒントを得て、アックスマンが前面に書き記した雄弁な文章の他に、資本主義の悪弊や、不当に拘留されている政治犯の解放要求などが詳細に書かれていた。

「見つけた」ダリヤが急にアックスマンの説明に割り込んだ。「博士がウォール街を通ってる」

双眼鏡をそれぞれ手に取り、3番埠頭の倉庫の中にあった黒い木製の荷車を探した。オーゲン博士がJ.P.モルガンの向かいの縁石に停めると、ゆっくりと交差点まで移動し、外に出ていった。黒い帽子とスーツを着た博士は、まるで配達に来た老商人のようだった。昼間の人通りが増えた交差点では、数歩歩いただけで歩道を行き交う人波に紛れ込んでしまった。

馬車と馬が路上に静止したまま、数秒が経過した。歩道からはみ出た歩行者に気をつけながら、車はゆっくりとウォール街を通過していた。やがて、トリニティ教会の正午の鐘が鳴り始め、真昼の休息が始まることを人々に告げた。

その時、轟音が街中に響いた。博士の荷車が爆発し、ウォール街を炎の玉で埋め尽くし、ヘルハウンダーズがいる建物の木の足場さえも揺らした。博士の荷車と馬は破片となって飛び散り、石やガラスや人肉を切り裂いた。車もひっくり返り、近くにいた人々の間では怒号が飛び交った。爆心地の両側からは横一文字に炎が上がり、空にはオレンジ色のサイクロンが吹き上がり、それは博士の圧縮されたマリスの残骸で真紅に染まっていた。

次に煙が上がり、血も凍るような叫び声とサイレンが鳴り響いた。アックスマンは通りを見回したが、ウォール街に立ち並ぶ焼死体や切断された犠牲者が視界に映るだけだった。爆心地から少し離れたところでは、顔から舗道に投げ出され、衝撃かショックで気を失っている者もいた。暗い煙が立ち上っていたが、それだけではなく、犠牲となった人の魂から純粋なマリスが漂っていた。

「なんてこと」ヴィトーは窓から後ずさり、双眼鏡を落として叫んだ。「なんてことをしやがったんだ!」

どこを見ても死と破壊ばかりで、アックスマンの心の奥底から大きな悲しみがこみ上げてきた。双眼鏡を覗き込みながら涙を流し、長いため息をついた。

「可哀そうな魂たち」アックスマンが囁いた。「この犠牲は決して忘れない」

「彼らは革命の燃料となる」サリエルはアックスマンの背後から近づき、安心させるように肩に手を置いた。「まもなく彼らの魂は一人残らず、世界をより良く変えるために立ち上がる我々に加わってくれるだろう

まだ涙を流していたアックスマンは左側からの動きを察知し、本能的に横を向いた。彼の横のダリヤは目を閉じ、両手を広げてマリスを吸い取ろうとしていた。自身もマリスを注入しているため、ダリヤの体を包む深紅のエネルギーが、彼女の中に芽生えた新しい生命に向かってゆっくりと流れていく様がはっきりと見えた。サリエルも同様で、自分も望めばいつでも手を伸ばして新たな力を手に入れられることを、アックスマンは本能的に知っていた。その不思議な爽快感は、博士の研究室で明るい光の下で過ごした日々を思い出させた。博士の期待に応えるために、毎日が新しい挑戦と強くなるための努力の日々であった。

「アメリカはこの瞬間を忘れることはなかろう」サリエルは淡々と話した。

「実に興味深いねぇ」オーゲン博士が部屋に滑るように入り、声が聞こえてきた。「これでゆっくりとこの祭りを堪能できるぞ。パーマーとフーバーはきっとすぐにでも出てくるだろう」

「やりすぎだろ」ヴィトーの声が震えた。「オレたちは暴君から無実の人々を解放するはずだったこれじゃ何の理由もなく無実の人々を殺したのも同然じゃないか!」

「うるさい」ダリヤが言った。「集中してるんだ。邪魔するな」

アックスマンはサリエルの唸り声を聞いて振り返ると、リーダーに地面から持ち上げられて咳き込んでいるヴィトーの姿が見えた。酔っぱらいは苦悶の叫び声を上げたが、暴れることはなかった。その理由をアックスマンは知っていた。サリエルに抵抗することは、マリスの力を持たない者にとっては、途方もなく無益な事だからだ。

「また俺を怒らせたいのか」サリエルはヴィトーの顔から数センチのところで歯をむき出し、唸った。「もう泣き言はたくさんだ、お前にはまだ果たすべき役割がある。お前の命を救ったのはこの俺だ。今こそ恩返しをする時だ」

「サリエル」ヴィトーが咳しながら言った。「オレのことを大切に思ったことは今まで本当にあったのか?それとも、最初からずっと道具にしか思っていなかったのか」

「家族だろう?」サリエルがすぐに答えた。「大事に思っているに決まっている」

それを合図にフランツは縛られた生き物を掴んだ片手を前に進み出た。サリエルが家族を地面に下ろしたらヴィトーは震える腕を上げ、博士に琥珀色に輝くものを肩に装着させた。

「ここだ」フランツはゆっくりと、ヴィトーの指を生き物の腹部へと移動させながら言った。「それを思いっきり押せば、口から針が出る。実に簡単なことだ」

「屋根に連れていけ」サリエルは、ヴィトーをひらひらと手で振り払いながら言った。「消防署が到着して現場を確保すれば、捜査局はいつ現れてもおかしくない」

フランツは入口で陽気なジェスチャーをすると、ヴィトーの背中を軽く叩いて外に連れ出した。

「諦めないんですね」サリエルが窓の方を振り向くと、アックスマンは不思議そうに首を横に振った。「どんなに見通しが悪くなっても。サリエルはいつもめげずにヴィトーを励ましてくれるんですね」

「成功の秘訣は、あきらめないこと」 サリエルはベルトの端を勝ち誇ったように親指で撫でた。「人間も同じだ」

「俺も変わりたいです、サリエル」アックスマンが何一つ疑念を抱いてない声で言った。「今までの自分が見違えるほどに、もっといい自分に」

「きっとできるさ」サリエルが頼もしい腕でアックスマンを抱えた。

案の定数分後には大きな赤い消防車が現れ、あっという間に長いホースで通りを水浸しにした。アックスマンは炎が消え、遠目にはレーズンの束のようにも見える炭化した死体の列が地面に散らばるのをじっと見ていた。オーゲン博士の荷車とその周りに残っていたものから小さな煙が立ち昇る中、帽子の波が再び押し寄せ、両側の通りを塞いでしまった。

アックスマンは双眼鏡を動かし、この惨状をしかと目に収めようと街灯や銅像によじ登る見物人達を発見した。まるで死に酔ったジャンキーのように、同類がどれだけひどい目に遭っているかを見たいという衝動に駆られてマンハッタン中のいたるところから集まってきている。サリエルが言っていたように、人間にとって混沌とした暴力ほど魅力的なものはなかったようだ。

「あいつは位置についたか?」サリエルが小さな赤い宝石のようなものに話しかけていた。マリスキューブからとれた小さな立方体で、船にある双方向無線によく似た機能があった。

「ああ」博士の声が立方体から響いた。洞窟の奥深くに迷い込んだような、ちぐはぐで遠い響きをしていた。「見晴らしが絶好のいい場所を見つけた。すぐに降りてくるよ」

オーゲン博士は約束通りすぐに合流した。ヴィトーが一人で屋上にいる間も気を抜かずにいてくれると信じる他なかった。時間がたつと、金融街の通りは人だかりで舗装の跡も見えないほどになっていた。ジンジャーエールを何本も飲み、チーズとシリアルを何回か齧っている内に、アックスマンは北の端からパトカーが何台も走ってくるのを発見した。

ゆっくりと角を曲がったところで車が止まり、高級なスーツに高級な帽子をかぶった男たちが列をなして出てきた。双眼鏡で見るとちょっと向きを変えるだけで、帽子のつばの下に顔が隠れてしまう。一人一人の顔を見分けるには、鋭い目と集中力が必要だった。

アックスマンはまさにそれを持っていた。深い忍耐力。暗闇の中で待つのと同じだ石のように体を下の木に沈め、目を凝らしながら自分を落ち着かせた。そして予想通り、数分後には目標を見つけた。

「あそこだ」とアックスマンは低く呟いた。「前から3両目」

A・ミッチェル・パーマーの姿はすぐにわかった。顎が大きく背の高いクエーカー教徒はフーバーよりも10センチ以上高く、間違いようが無かった。四方を警官に囲まれて懸命に人ごみをかき分けていた。現場を調査したいと思っているのは一目瞭然だった。

「バーンズも一緒か
サリエルがつぶやいた。「1910年のロサンゼルス・タイムズ爆破事件の犯人を捕らえた敏腕刑事だ。なるほど、専門家を連れてくるのは当然か。ヴィトー、フーバーの隣にいる口ひげの生えた男が見えるか?彼もやれ」

「いずれにせよ、急がないと」オーゲン博士がサリエルの肩の後ろから付け加えた。「きっと彼らが人前に姿を見せるのはそう長くないだろう」

「わーったよ」ヴィトーはため息つきながら言った。「息をする時間ぐらいくれよな」

ヘルハウンダーズが待つ部屋は静寂に包まれていた。消防署のサイレンはとうに鎮まり、かすかな街の喧騒だけが木造の建物の中を漂っていた。すると、向こう側のヴィトーが小さく声を上げた。

「今撃つ」ヴィトーが静かに言った。「最初はパーマーだ」

アックスマンが双眼鏡で2人を見張っていると、上の方からパンッと張り詰めた風船を針で突いたような大きな音が聞こえてきた。

それは、アックスマンの理解が追いつかない出来事だった。

A・ミッチェル・パーマーは群衆の真ん中で立ち止まり、トリニティ教会の方向に顔を向けた。高速で飛ぶ針が彼に迫った瞬間、司法長官は腕を振り抜き、まるでハエのようにその針を振り払った。

「何だと?!」サリエルが叫んだ。「今のは一体

「いや、まさか」フランツがつぶやいた。「ファラゴーの針は石をも貫く人間ごときが腕一本で防ぐことはあるまい!」

「司法長官はただの人間ではないということか」アックスマンは暗い声で言った。「奴が俺たちの方にまっすぐ歩いて来る」

アックスマンの言う通り、パーマーは不吉な笑みを浮かべながら、群衆をかき分けてトリニティ教会の方角に直進してきた。その後ろでは、フーバーがバーンズと一緒に立ったまま、戸惑った顔で何事かを叫んでいた。

サリエルは博士のマリスキューブを手に取ると、その中に向かって狂ったように叫びはじめた。「何を躊躇っているんだ、ヴィトー?もう一度撃て!もう一度撃てば倒れるだろう。今のはまぐれに違いない!ヴィトー?ヴィトー!応答しろ、ヴィトー!」

しかし返答はなかった。

「ヴィトーにもキューブの破片を渡しましたよね?」アックスマンが尋ねた。

「ああ」フランツが不安そうな声で答えてからサリエルが未だに持っていたキューブの方を見た。「ヴィトー、聞こえるか?応答しろ!」

しかしキューブからは何も聞こえなかった。

「俺が見に行く」アックスマンが双眼鏡を放って動き出した。「破片をお願いします」

博士はマリスキューブから破片を抜き取ってアックスマンへと投げると、彼はそれを素早く掴んで部屋から出て行った。隠れ家から頂上までは3つの足場を登り、天井の防水シートに開いた小さな穴から外の足場に出るだけの簡単な道だった。外に出て不安定な梁から一歩でも足を踏み外せば、たちまち10階分を転落することになる。

アックスマンは慎重に腕を上げ、木の足場を掴み、体を上に持ち上げた。屋根の上に立ち、体を起こして周囲を見渡した。

屋上には誰もいなかった。道具や木の板、余ったシートなどが所々散らばっているが、それ以外には誰一人として見当たらなかった。

「どうだ、アックスマン」サリエルの待ちきれない声が向こうから流れてきた。「状況を報告しろ」

「いない」アックスマンは、状況を理解しようとする自分の言葉に不信感を抱きながら、ゆっくりと言った。「ヴィトーはもうここにはいない」

 

5

DARYA

 

「子ネズミがとうとう逃げ出したか」

この数時間、ダリヤは交差点から流れ出るマリスの奔流以外にはほとんど目を向けず、我が子の栄養を欠片も取り逃すまいと必死だった。長い間、苛立ちを募らせるだけの作業や取引、そして何時間もの博士のおしゃべりを耳に入れるという苦行を経て、ついに不可能と思っていた目標を達成することができた。自分の子を産むこと、つまり自分の遺産そのものが、心の中ではいつだって最優先だった。

しかしA・ミッチェル・パーマー暗殺の失敗については、皆と同じように戸惑いを覚えた。窓から目を離すと、サリエルと博士が眉をひそめてお互いに睨み合っている。

「ヴィトーがもういないとは一体どういうことだ?」博士がゆっくりとキューブに向かって尋ねた。「さっきパーマーを撃とうとしたばかりだろう...」

「ここにはもういない」アックスマンが向こうから喋った。「彼もファラゴーも見当たらない」

サリエルはダリヤと博士に付いてくるよう合図した。屋上に上がった2人は、アックスマンの報告と同じものを目にした。

「こんなところからどうやって消えるというのだ?」博士が顎をさすりながら屋根を見渡した。「もし彼が降りてきていたら、聞こえたはずだがこの高さから飛び降りる勇気があったとは信じがたい」

「それは分からん」サリエルは屋根を歩き回った。「辺りを調べてみる」

「パーマーは?」アックスマンが不安そうに腰につけられた斧を触った。「部屋を出る前はもう教会にたどり着いてた」

ダリヤはため息をついた。「待って。私が調べる」

ダリヤの喉からゴボゴボと音がして、腹から一匹の蜘蛛を出し、足場へと飛び移らせた。銀色に輝く小さな脚は、不安定な屋上を軽々と飛び越え、その軽さ故に土台に開いた穴から落ちることは無かった。素早くビルの縁を飛び回り、見たもの全てをダリヤの頭の中に送った。

「何も見当たらない」ダリヤは無感情に答えた。ちょうど蜘蛛が口の中に戻ってきたところだった。

「下へ行こう」サリエルがはっきりと言い、穴の中に戻っていった。ダリヤは彼の表情から不安が伝わってくるのを感じた。計画を狂わされただけでなく、不可解な出来事の連鎖に巻き込まれた。何よりも支配欲が強い者にとって、これ以上の大きな恐怖があるだろうか?

ダリヤはサリエルをほとんど信頼していなかった。ダリヤが博士に命を吹き込まれた直後に見た人物、彫りが深く、魂を持たないゴーレムの本性はそのままだったということがこの1年間で証明された。しかし、サリエルには異常なまでの権力への執着と英雄願望があり、そしてそうした性格の人物は大いに利用する価値があるということを、多くの人と出会ってきたダリヤは知っていた。博士の人間離れした技術への執着がダリヤに想像を絶する力を与えたように、サリエルも苦しみ抜くに値する利益をもたらす、ちっぽけな存在のはずだった。

木と鉄でできた薄暗い迷路の中に入ったヘルハウンダーズは、1階にたどり着くとその光景に息を飲んだ、血まみれの手足や体の一部が散らばっていたからだ。かろうじてビール瓶やトランプの残骸が血と肉の中に確認でたが、それが建設作業員の遺体だと判明するまで少し時間がかかった。

博士がしゃがみこんで、傷の状態を調べた。「きれいな切り口だが、傷の周りが焦げている。マリスの影響を受けた時の傷によく似ている」

「パーマーはどこだ?」アックスマンが尋ねた。「ここに向かって歩いて来たんじゃなかったのか?」

「どうも違うようだね」博士が思考を巡らせる。「別の狙いがあったというわけか」

ダリヤはもう一匹の蜘蛛を出現させて死体の周辺を走らせた。立っているこの場所から感じるのは難しいが、蜘蛛の鋭い感覚と地面との近さによって、かつてその空間を占めていたエネルギーの僅かな残留物を拾うことができた。ダリヤは慎重に蜘蛛の感覚を自分の中に流し、心理的な痕跡のある方向へ誘導した。蜘蛛が血の跡を通り過ぎ、工事現場の隠された入り口へと向かうと彼女は蜘蛛の後を追った。

青空の下に出ると、ブロード街とウォール街の方角から聞こえてくる騒ぎが大きくなり、ダリヤは先程の大虐殺のことを思い出した。ほんのすこし前のことなのに、もう遠い記憶になっていた。

ビルの裏の路地にはまだ何もなかった。ダリヤは左右を確認してから、蜘蛛の歩みに視線を戻した。蜘蛛は少し動いただけで、工事現場と他の建物の角にある路地の交差点の真ん中にたどり着いた。蜘蛛の下にはマンホールがあり、その蓋が横にずれていた。

「ダリヤ?何か見つかったか」サリエルが尋ねた。他の2人も彼女を追い、一緒に外へと付いてきた。

サリエルからの質問には答えずに、ダリヤは蜘蛛とマンホールの前にしゃがみ込んだ。蜘蛛は残留エネルギーを追って下に降りようとしたが、ダリヤはすぐに止めるように合図した。一瞬のためらいの後、蜘蛛は彼女の口の中に戻っていった。

「あんなことを起こしたモノが何であれ」ダリヤは立ち上がりながら冷静に言った。「ここを降りて行ったらしい」

サリエルと博士は、言葉を失った様子で近づいてきた。一方、アックスマンは身を屈めて奈落の底を見つめていた。マンホールには、金属製の細い梯子がついているが、午後の明るい日差しのせいで底に何があるのかが見えなかった。

「どうみても罠だね」博士があまりにも明白な事実をわざわざ説明した。「注意を引くために死体をそのままにして、おびき出すように蓋を元に戻さなかった」

「罠?」サリエルは繰り返した。その言葉に侮辱されたようだった。「誰が我々を陥れようというんだ、ヘル・ドクトル?我々の存在さえ誰にも知られていないのに」

博士が返事を考えている間に、アックスマンは梯子に手をかけ、穴の底へと降り始めた。「俺が先に向かう」

「ヴィトーごときを助けるために汚い下水道などに入ると思うのか」ダリヤはすぐに言った。「そんなの計画にはなかっただろう」

「ダリヤ」サリエルはゆっくりと向き直りながら言った。「家族の一人が危機に瀕している。君の助けが必要だ」

ダリヤは嘲笑を漏らし、その後に骨の折れるような音がした。彼女の背中から大きな蜘蛛の足が2本出てきて、下水をかき分けるためにダリヤの体を歩道から持ち上げた。

アックスマンが身を低くし、ダリヤも渋々それに続いた。博士とサリエルも梯子を降りると、サリエルが呻き声と共にマンホールをシャフトの上に滑らせた。

トンネルの中はじめじめして冷たかった。博士は梯子から降りると、マリスキューブから四角いものを取り出して額のゴーグルの上部に取り付けた。マリスの波動と共に正方形は赤く長い光を放ち始め、狭い通路を深紅の光で照らし出した。靴には泥水が染みこみ、辺りには地下室のような酸っぱい臭いが漂っていた。

「実に興味深い」オーゲン博士は、どこまでも続くような曲線のレンガを眺めながらため息をついた。「ずっとここに来てみたかったんだ。8000人の移民労働者の手によって作られた、世界で最も発達したニューヨークの地下下水道トンネルの話を聞いたのでね」

「急げ」サリエルがぶつぶつ言った。「パーマーがここに隠れているのならそう遠くないはずだ」

ヘルハウンダーズは静かに一列に並び、通路を横切ろうとしていた。遠くから聞こえる水の音と、地層のどこかで聞こえる列車の音以外には、何も聞こえなかった。

長いトンネルはさらに広い広場に出て、大小さまざまなトンネルに繋がっていた。子供の背丈ほどもあるトンネルもあれば、広々としたトンネルも。最初のトンネルでアックスマンが猫背で窮屈そうにしていたところを見ると、4人全員が隅々まで探検できるわけではないことは明らかだった。博士の赤い光は、いたるところに流れる濃い茶色の液体を浮かび上がらせるだけでなく、地表の下側を走るガスや蒸気のパイプ、ニューヨークの街を動かす動力源も照らしていた。

ヘルハウンダーズが入ったのとは反対側の四角い部屋は奥が崖になっており、下水道の奥へと続く金属製のはしごが取り付けられていた。その端に忍び寄り、レンガの割れ目に沿って様々な場所に光を照射した後、彼の姿を捉えた。彼、A・ミッチェル・パーマーは下層部の北東の奥にあるトンネルに入るところだった。

赤い光が当たるとパーマーは一瞬、首をかしげて、彼らの存在を認めたかのような素振りを見せてからそのまま進んだ。全身が青い光に包まれていた。

「捕らえろ」サリエルが鋭く言ってからはしごを下ろうとした。

「待って」ダリヤが言った。「聞こえないのか」

ダリヤの声で、他の3人も耳をそばだてて、次第に大きくなっていく奇妙なキーキーという鳴き声に注意を向けた。ダリヤはゆっくりと振り返り、周囲のトンネルの開口部を見つめたが、正確な発生源を特定することはできなかった。

ネズミ?」

アックスマンがそう言った途端、暗い毛皮の生き物の大群が各トンネルから小走りで出てきた。小さな爪で石の上を素早く移動し、赤い光の中で黒目を光らせながら、4人を取り囲むように突進してきた。

ダリヤは頭を上に向け、口から蜘蛛を大量に吐き出した。蜘蛛は従順に体の側面を駆け下り、害獣の進軍を阻むように備えた。蜘蛛の鋏角から噴出した黄色い球体は、肉や毛を溶かし、互いを踏みつけ合うネズミの悲鳴がさらに大きくなった。

「これが罠の正体か」 サリエルは嘲笑した。「ネズミの群れで脅そうなんて」

「他愛もない単純な考えだ
博士のマリスキューブは、準備音を発した。「害虫同然の脳みそのようだね」

ダリヤの隣で、博士はキューブを使って死の赤い光線を大群に向かって発射させた。それはネズミもその下のレンガも薙ぎ払ったが、ネズミはあらゆる穴から流れ出して来た。サリエルも右手に装着したノズルで大群を撃ち、アックスマンは武器を振りかざし、広場にいる集団に向かって飛び出した。

「待て!」ダリヤが叫んだ。「下がってろ何か変だ」

蜘蛛の酸で前線を突破したが、現在は蜘蛛の動きが止まり、指示したはずの酸も吐き出していなかった。何が起きているのか分からない蜘蛛はいつものように彼女の命令を聞くどころか、動くのをやめ、ネズミに手足を切り裂かれていた。

一匹の蜘蛛が自分の方へと戻ってくるのがダリヤには見えた。それは一匹、もう一匹と続き、蜘蛛はネズミの大群に加わったようにも見えた。

「博士!」ダリヤが叫んだ。「バリアを張れ!」

博士はすかさずマリスキューブで4人の周りに赤いバリアを張った。蜘蛛もネズミもそれに突進したが、マリスの衝撃で跳ね返された。

不思議に思ったダリヤはすぐさま手を伸ばし、一番近くの蜘蛛を掴んだ。蜘蛛は手の中で動き、酸を吐いてはいたがその動きは緩慢で、混乱しているように見えた。徐々に生物を観察しているうちに、彼女は何が起こったのかを理解した。

小さな蜘蛛の背中の真ん中には、フジツボらしきものがあった。赤い肉厚の口のようなものが、白いキチン質の円錐形の固まった殻に包まれていた。ダリヤは怒りに駆られ自分の蜘蛛の足を一本上げ、その寄生虫を突いて引き裂こうとした。キチン質の殻を破り、その中に隠れていた黒い触手を露出させた。

自分の子供である蜘蛛の背中から黒く血に濡れた触手が飛び出し、ダリヤの手の中に根を張った。彼女は痛みに耐えかねて叫び、恐怖の浮かぶ目を地面へと向けた。よく見ると、赤と白のフジツボがネズミの毛に埋もれているのが見えた。それは顔も背中も覆っていた。腫れて血管のようになったフジツボは、口を上下に動かしており、その中にある小さな黒い触手をちらりと覗かせた。

「寄生虫」 ダリヤがつぶやいた。
「だからこのネズミが送り込まれたんだ。攻撃するためではなく、寄生虫に触れさせるために

「何だと?」博士が聞いた。「そのネズミを介して蜘蛛に寄生を?でもどうやって

ダリヤはその巨大な付属器官からマリスを放ち手から触手を切断すると、すぐに蜘蛛を落とした。

「破壊しろ」ダリヤが食いしばった歯の間から命令した。「汚染されている」

ダリヤは再び叫ぶと手の傷口から新たなフジツボがすぐに芽を出し始めた。キチン質が肉を貫くたびに、手の感覚がどんどん遠のいていく。そして、いつの間にか手が勝手に動き出し、サリエルの腕に巻きついていた。

「何のつもりだ」サリエルが自分の腕を引っ張り自由にしようともがいた。その抵抗が不毛と知るや否やもう片方の拳を振りかぶり、ダリヤの手を叩き落そうとした。

「待て、触るな!」ダリヤが叫んだ。「拡散しようとしている

「アックスマン!」博士が叫んだ。「手を切り落とせ!」

ダリヤは苛立ちのため息をつくと、蜘蛛の脚で体を支えた。アックスマンの斧で切断された手首はそのまま床に落ちた。彼女は痛みで声を上げて腕を握りしめ、後ずさった。

「誰」彼女が囁いた。「一体誰がこんなことを」

「誰であろうと、ここから降りなければならない」博士が言った。「バリアを張ったまま進むしかないバリアはあまり広げることができない、皆は近くに立っていてくれ。サリエルと私が先に降りる」

ネズミや蜘蛛がマリスのバリアに阻まれながら周囲を駆け回る中、サリエルと博士は慎重に梯子の方へと移動し、降り始めた。次はアックスマンが降りて行った。ダリヤが彼を睨みつけて動こうとしなかったからだ。ダリヤは梯子を下りる前にもう一度今来た道をちらりと振り返った。子供たちとネズミは、鼻からほんの数センチしか離れていない障壁に向かって無駄な投身を続けていた。蜘蛛は一匹残らずフジツボに覆われていた。

呪いの言葉を再び呟きながら、ダリヤはしゃがみ込み、空いた手で梯子に掴まろうとした。梯子の下の方で、アックスマンが緊張した面持ちで彼女を見上げていた。ダリヤの耳に声が聞こえてきたのはその時だった。

「なんだ、シールドかよ。フェアじゃねーな」

ダリヤが振り向くと、トンネルの一つから黒い船長服のようなものを着た人物が歩いてきた。顔は全体に血まみれの包帯が巻かれ、大きなハンマーの柄を両手に握っていた。

「ダリヤ?」アックスマンが下から見上げながら呼んだ。「誰かいるのか」

ダリヤが次の選択肢を考えるほんの一瞬の間に、ゲラゲラと笑いながら男は彼女に駆け寄ってきた。梯子に駆け上がり、ハンマーを振りかぶって彼女の頭に振り下ろそうとした。ダリヤは梯子の横を蹴って後ろの宙に逃げ、手足を出して着地を和らげようとした。だが驚いたことに相手の胸から黒い触手が飛び出してきて、落ちる前に空中で彼女を捕らえた。苛立ちとパニックに襲われたダリヤは、触手を切り離そうと蜘蛛を吐いた。

触手の勢いを利用して男は梯子の上から飛び降り、ハンマーを頭の上に振り上げた。すると突然、下からマリスの爆風が吹き上がり、男の背中を弾いて軌道を変えた。不運にもダリヤはそれに巻き込まれ、男と一緒に下の通路の間を流れる汚水の川へ落ちた。

「サリエル、なんてことを!」汚れた泥がダリヤの感覚に負荷をかけ、すべてが闇に包まれる前に最後に聞いた言葉だった。

 

6

VITO

 

 

 

異世界の真空がヴィトーの存在を初めて引き込んだ時、ヴィトーはそれを押し返そうとした。残念ながら、それが屋上で過ごした最後の記憶だった。次に覚えていることは暗い穴の中を追いつけないほどの速さで転がっている自分だった。悪い夢を見て、ハッと目覚めた時のようだった。ただ、ヴィトーは目覚めることができなかった。若い頃の失敗や欠点から人生が好転したと思われた瞬間まで、これまでの人生が目の前で目まぐるしく駆け巡った。

ヴィトーは夜明けにサリエルとシャンパンを飲んだのを思い出した。彼らは一日中座って波を眺めながら、人類について語り合い、世の中の欲深さを嘆き、将来の夢に希望を見出した。

『あれが本当のエンディングだったのかもしれない』セピア色の記憶が薄れ、ヴィトーはそう思った。『あれが人生の頂点で、今あるものはステーキの端の脂に過ぎないのかもしれない』

ヴィトーは頭が何かにぶつかったような気がして、痛みに呻いた。両肩に不快な衝撃が走った。片方の肩にはまだファラゴーが装着されたままだ。ヴィトーは無意識のうちに手を伸ばして頭をさすり、痛みを和らげようと必死になっていた。次の瞬間、自分がセメントの上に横向きに寝ていること、そして頭がレンガの壁のようなものに不格好に押し付けられていることに気が付いた。

ヴィトーは小さく唸った。目を細めて首筋に走る別の痛みに耐え、ぼやける視界を安定させて部屋の中を見渡そうとした。湿っぽく自然光も差していないその部屋はアーチ型の天井に囲まれていた。四隅のセメントに溶け込むように、小さな白いろうそくが並んでいた。

寝室程の大きさを持つ部屋の反対側、壁の近くに倒れた女性らしき人物を見下ろす人影が見えた。背が高く体格のいい男で、青いオーバーコートを着て、肩まで伸びた長い黒髪に濃い顎鬚を生やしていた。床に倒れている女性は紫色のドレスを着ていて、巻き毛の金髪。奇妙なことにある人に似ている

『リディア?』

見ているものがあまりにも理解不能で、ヴィトーは目を閉じ、再び目を開けた。視界がはっきりすると部屋にはもう一人が加わったことが分かった。まるで夢遊病者のように、目はうつろで腕はぐにゃぐにゃのA・パーマーだった。ヴィトーの喉に恐怖がこみ上がってきた。右まぶたを閉じ、左まぶたを半ウィンクのまま固めてまだ眠っているように見えるかもしれないと期待した。司法長官の身体は青い光に包まれ、腕を上げるとその光は大きく強くなっていった。そして、その光は歪み、うねりながらパーマーの体から下へ、下へと移動し、床に倒れている女性の腹にちょうど合わさるように被さった。

パーマーが床に倒れ込むと、女は起き上がった。背の高い男が手を伸ばしたが、彼女はそれを拒否し、自分の力で立ち上がった。彼女の顔をはっきりと確認したヴィトーは、心臓が喉まで飛び上がったような気分になった。それは確かにリディアだった。それとも彼が午前中に言葉を交わした女性が、一卵性双生児だったのだろうか。

ヴィトーは右まぶたをできる限り閉じながら、今の状況を目に収めようとした。リディアは埃を払って服を整えると、パーマーに視線を投げかけて納得したように頷いた。

「良いでしょう」リディアが言った。「道中気付いたけど、デイヴィスも客人を迎えに出たようね」

「足止めができると自信があったみたいだ」背が高い男性が言った。「ネズミがどうのこうの…」

リディアは首を横に振って、ヴィトーと目を合わせた。「何よ。私の綿密な計画のご褒美に暴言一つや二つぐらいくれても良いのよ?起きているなんて最初から分かっているんだから」

ヴィトーはリディアが近付いて来ても他にいい方法が思いつかず、寝たふりを続けた。朝見せた甘い笑顔のままだったが、その目は不吉な輝きを帯びているように見えた。

「意地を張るのはやめなさい」リディアはそう言うと、指を伸ばし、その先にオレンジ色の小さな炎を灯した。「こんなハンサムな顔に火傷をつけさせないで」

彼女はしゃがみ込み、ヴィトーが突然目をぱちくりと開けて飛び起きるまで、その指を彼の顔に向けて動かした。「わかった、わかった、やめた」と言いながら、ヴィトーは両手を上げて負けを認めた。「オレをどうしたいんだ?オオレはどうやってここに入ったんだ?」

「これ、覚えてるかしら」

リディアはポケットから小さな赤い小銭入れを取り出すと、ひざまずいてヴィトーの顔の前にぶら下げた。「人が稼いだお金を盗もうとすると、こうなるんだよ。窃盗は大罪だからね」

次の瞬間、煙が上がり、小銭入れは黒い翼とピッチフォークを持った小さな赤い悪魔に姿を変えた。リディアの手から飛び出した悪魔は彼女の肩に座り、嬉しそうにくすくすと笑った。

「使い魔はどんなに遠くにいても、どんな牢屋に閉じ込められても、いつでも主人のもとに呼び戻すことができるの」と、リディアは嬉しそうに説明した。「そして偶に、牢屋ごと一緒に呼び戻すことだってあるの」

魔法だと言いたいのか」ヴィトーが咳込みながら言った。「魔法でオレをここにテレポートさせたのか」

「下をよく見なさい」リディアがニヤリと笑いながら言った。

ヴィトーは床に目を向けた。横たわっていた場所の下にはチョークで描かれた大きな白い円が6角形の星を囲んでおり、さらに小さな5角形の星が4つ、東西南北の方角に青色で描かれていた。ヴィトーの読めないヘブライ語がほぼ隙間なく記されていた。

ヴィトーはあわてて円陣の外に飛び出すと、リディアが笑った。「そんなに怖がる必要はないわよ。私たちがそう願わない限り、そこからは何も入って来ないから」

「あなたは一体誰なんだ」ヴィトーが震え声で尋ねた。

「リディア・リデル・メイザース」と、今までとは全く違う自信に満ちた表情で、リディアは大きな声で言った。「黄金の夜明け団の創設者、サムエル・リデル・メイザースの娘」

ヴィトーはその名前をよく知っていた。カバラ、幽体離脱、錬金術、その他オカルト的なものを研究する秘密結社だった。秘密主義で支離滅裂。迷惑なセックス・カルトのひとつに過ぎないと彼は思っていた。

「黄金の夜明け団か」ヴィトーは慎重に言葉を選んだ。「あの、有名な神秘主義者のグループか。お父さんが名の知られた翻訳者だって事、知っているよ」

「以前はそうだったかもしれない」リディアは眉間にしわを寄せて言った。「クロウリーの野郎が現れ、全てを台無しにする前は。でももう過去のこと今は新しい主に仕えているわ。お前が暗殺しようとした男の、もっとマシな使い道を知っている主のことよ」

「パーマーを?」リディアの口から新しい返事が出るたびに、ヴィトーは自分が聞いている事をますます信じられなくなっていることに気がついた。「あのゲス野郎を救うだけのためにここまでやる必要はあるのか」

ヴィトーの言葉にリディアは笑い声を上げただけだった。「お前とその仲間は首を突っ込みすぎだね。うぬぼれ屋のお友達とはおさらばする時間よ、ヴィトー奴らはもうこの世界で長居はできないでしょう」

「何を言ってるんだ?」ヴィトーは体を起こして座り、リディアの不可解な言葉の裏の意味を見極めようとした。「オレ達はただ、専制政治から人々を解放しようとしているだけだ。あの爆弾の件はやりすぎだとオレも思うよオレは反対だったからな!でも、あなたも誰かを倒そうとしているのなら、一緒に組めばいいだけの話じゃないか」

「一緒に組む、ですって?」リディアの眉毛が上がった。「私たちの目標すら知らないのに?」

「どどういう目標なんだ」首の後ろの毛が逆立つのを感じながら、ヴィトーは勇気を振り絞って言葉を発した。

「人類は時代遅れになってしまったの」とリディアは意気揚々と言った。「だから最後の一人まで、我々のゆるぎない意志に従わせようとしているのよ」

「我々だと?あなただって、人間じゃないか」

リディアは目を見開き、瞳孔が少し小さくなったように見えた。「そんなこと言っていないわ」

リディアが立ち上がり、ヴィトーがその存在をすっかり忘れかけていた背の高い男のところへ戻ってくると、ヴィトーは言葉に詰まった。リディアが彼の横を通り過ぎ、パーマーのコートの中から何かを探し始める時も無精髭の長髪男は黙ったままだった。

「でもヴィトー、あなたにはどこか愛らしいところがあるのは否定できないから、今回だけは特別扱いしてあげてもいいわよ」リディアはそう言うと、小さな汚れたバッグを取り出して、彼が今逃げ出したばかりの円陣へと戻って行った。「残念ながら、あなたは新体制で生き残るにはあまりにも弱くあまりにも人間らしくて。でも私のベッドの下で寝るぐらいなら許してあげてもいいわ」

リディアは魔法陣の上に身をかがめ、小さな小瓶の中身をその上に投げると、部屋にはミルラとシナモンの異様な匂いが漂った。それから、彼女は小さな袋の紐を解くとその中身を中央の星に捨て、引き裂かれた臓器や内臓のかけらのようなものでいっぱいにした。

リディアは捕虜に視線を戻した。「私たちのリーダーが来たら受け入れなさい。そうすれば、私たちに抵抗する者たちよりもずっと苦しみが軽くなる。私を信じてあなたのためなのよ」

リディアは目を閉じ、両手を喉元に当てた。「生まれざる者よ、私はあなたを召喚する」
彼女はゆっくりと唱えた。「地と天を汚す者、肉を知らぬ者よ。冒涜的な存在に、もう一度地面が震えますように」

言い終わると、円陣を囲む小さな星々が深い青色で輝き始めた。その中心に輝く緑色の点が現れ、ゆっくりと広がり、肉と内臓を飲み込むほどの大きさになった。空間そのものが震え、部屋の中の蝋燭が揺らいだ。そして、ヴィトーには緑の裂け目の中から長い指が伸びてくるのが見えた。ムキムキで青白い腕が伸びてきて、その腕の持ち主を向こうから引っ張り出してきた。

次に、髑髏のようなやつれた顔が出てきた。紫色の唇、太い鼻、そして武器のような大きな顎。深淵な黒の瞳孔と澄んだ白の光彩。血で汚れた地面から流れるような白銀の髪の毛が吹き出し、歪な顔が高く上がり、その後に体の残りの部分が続いた。隅々まで毛がなく、滑らかで、光っていた。

大きな体からは5本の太く薄緑色の触手が伸びていた。2本は肩から、2本は腰から、1本は股間あたりから。彼がポータルから移動し、試しに数歩前進すると、5本の突起は猫のしっぽのように気まぐれに動いた。

「ふわぁ」とため息をつきながら、ポキポキと指関節を鳴らした。「ご苦労だ、リディア。向こうから渡ってくるのはいつもとんでもなく面倒だな。あれが司法長官か?」

「はい、ヴァクシュル様」リディアが背筋を伸ばして挨拶した。「いつでもどうぞ」

「ではお言葉に甘えよう」ヴァクシュルは司法長官に近づき、触手の先端をその男の胸に撃ち込んだ。パーマーから血が吹き出し、ヴァクシュルは触手を外してそれをきれいになめた。「数時間たてば、芽が出るはずだ。その間に新しい客人に挨拶しておくか」

ヴァクシュルがヴィトーに視線を送ると、触手がすぐに追いかけてきた。ヴィトーは驚きの声を上げ、何かつかまるものを探そうとしたが、何もなかった。数秒後、ファラゴが取り外され、ヴィトー自身は床を引きずり回され、太い触手に縛られて地面に転がり、動かなくなっていた。

「こいつが、例の新しい手下か」ヴァクシュルはリディアを見上げ、青白い唇がサディスティックな歓喜で上向きに歪んだ。

「そうです」リディアは答えた。「できれば、彼を私用に使っていただきたいのです」

「お安い御用」 ヴァクシュルは笑いながら、触手の先端を自分の臍に差し込み、小さな植物の芽のようなものを取り出した。「じっとしてろ、人間これは少しも痛くないぞ」

触手が腹に食い込み、恐ろしい痛みが走るのを感じながら、ヴィトーは悲鳴を上げた。何か得体のしれないものが中で芽生えたような気がした。体を鋭い痛みが駆け巡り、筋肉が痙攣した。

「おっと、うっかりしていた」ヴァクシュルは笑いながら言った。「やっぱり痛いのか」

床に倒れたヴィトーを残し、ヴァクシュルは立ち上がり、2人の仲間に視線を向けた。「さて、そろそろ行こうか。やつらが近いみたいだ」

「さすがデイヴィス」リディアがため息をつきながら言った。「全員を捕まえることはできなかったのね」

「私たちが迎えましょうか」と背の高い男が聞いた。

「是非そうしよう」ヴァクシュルはそうつぶやきながら、出口に向かって歩き出した。「リディア、私たちが犬たちを歓迎している間、芽生えを見守りなさい。ああ、やつらの精神はとても高揚しているのだろうね、こんなに力とマリスに包まれて。一人残らず屈服させる瞬間が実に待ち遠しい」

 

 

7

FRANZ

 

 

「サリエル、なんてことを!」フランツが叫んだ。サリエルの手の筒口から立ち上る煙の向こう側に、濁流にのみ込まれるダリヤの影がかろうじて見えた。

「ダリヤだけが攻撃されるより、2人とも落ちた方が良いだろう」サリエルは自信に満ちた表情で手を下ろし、水路をじっと見つめた。「また修理すればいいだけの話」

「簡単に言うな!」フランツは抗議の意味を込めて手を振った。

サリエルは踏み出すと、アックスマンに付いて来るよう手で合図した。「進め」

フランツは目を大きく開いてため息を漏らしながらも、水路の上の通路を横切る2人の大男からあまり遅れないように気をつけた。主人が流されたネズミは襲撃をやめ、天井がアーチ型の部屋には水の音が響くだけだった。漆黒の闇の中、金融街の汚水が南西に流れていた。この汚水の行き先はハドソン川の端にある廃棄物処理場だとフランツは予想した。

3人がパーマーの道を辿ると、腐臭のする蒸し暑い空気が薄まり、地上の冷たい風が顔を撫でた。彼らの頭上にレンガでできたアーチ状の天井はいつの間にかなくなり、セメントを削って作られた曲がりくねった通路を進む。フランツの推測では、これはニューヨークの下水道と他の水道橋とをアクセスしやすくするために作られたメンテナンス用のトンネルに違いなかった。

サリエルが漆黒の鉄扉を押し開けると、ヘルハウンダーズは列車が十分に通れるほど広いトンネルの前に立っていた。額のキューブから赤い光で洞窟を照らしながら、フランツは左右を見渡した。そのトンネルの左側には溶けたロウソクが並び、奈落の底まで続いているようだった。

フランツはサリエルとアックスマンに警戒するよう言った。先頭はその2人、そしてフランツは彼らの後ろを付いて行った。数歩進んだところでトンネルの奥から苦しそうな、必死の叫び声が響いてきた。

セメントのトンネルを伝わるかすかな叫び声が、まるで見えない亡霊のように彼らをさらに奥へと誘っていた。その先には講堂ほどの広さを持つ深い部屋が待ち、その反対側には2本のトンネルが重なっていた。もう使われていない輸送トンネルの残骸か、あるいはまだ完成していない地下鉄の増設工事現場だろうとフランツは思った。左右には蝋燭の光でかろうじてその様子が見える小さな地下通路が続いていた。3人がトンネルを抜けて広々とした空間に足を踏み入れた時、フランツはようやく気が付いた。

「あの声はヴィトーだな」フランツは呟いた。

「ああ」新しい声が響いた。「いかにも」

フランツとサリエル、アックスマンが声の方向へ顔を向けると、背の高い人物が2人、左手の暗闇から浮かび上がった。1人は青い上着を着た背の高い男で、手入れされていない長い黒髪と、その髪と同じくらい濃い髭を生やしていた。もう1人は人型の生物で、背が高く、ざらざらとした青白い肌を持ち、筋肉質な体から茶緑色の触手が5本延びていた。

「パーマーはどこだ」サリエルが吠えた。

「パーマーだと?探しているのはヴィトーじゃなかったのか」青白い生物がにやにやした笑みを顔に張り付けて言った。「混乱しているようだな?」

サリエルは右手の掌を振り上げ、2人に向かってマリスの一撃を放った。彼らはその場を動かず、青白い生物が光り輝く触手をだるそうにあげて、その攻撃を防いだ。フランツはその様子をじっと見ていた。触手から紫色の瘴気が立ち上り、サリエルの力をいとも簡単に無効化してしまう様を。

「人間は愚かだな」その生物が嘲った。「愚行にも程がある」

唸り声をあげて前へ突進しようとしたサリエルを、フランツが手を差し伸べて引き留めた。「待て!まずは話を聞こう、サリエル。どこか悪い予感がしてならない」

「ああ、脳みそがあるヤツが1人いたようだな」触手生物が言った。「もう新しい神がお見えになっているんだ。下らぬ抵抗や野望は捨てろ」

神だと?」サリエルは唾を吐いて拳を握りしめた。「神との対話ならもうやっている。神は貴様のような奴ではない」

生物の紫色の唇が嬉しそうに曲がった。「だったらそいつは神ではなくなった奴だろう。残念だったな」

「ヴァクシュル様」髭のある男が喋り出した。「無力化しましょうか」

「まだ大丈夫、ラムセス」ヴァクシュルがゴツゴツとした指を立てた。「人類の滅亡だろうが数人のゴロツキの鎮圧だろうが、急ぐ必要はあるまい」

「ヴァクシュルさん、ラムセスさん」フランツがすぐに口を開いた。「私はフランツ・オーゲン博士です。私のこと、ご存じでしょうか。エヘンまぁいずれにせよ、あなたは神を名乗るのですね?目的は何でしょうか?なぜヴィトーを拉致したのですか?なぜパーマーの死を妨げるのですか?」

「もう1人の弟子、リディアがお前のヴィトーを気に入ったようだ。可愛いとか特別な素質があるとか何とか言って。まぁ、可愛い弟子に1人や2人の下僕をやらないと神の名も廃ろう」ヴァクシュルは大きな顎を触手で掻いた。「パーマーの件だがあいつとあいつが大事に育てている捜査局は駒として非常に使える。もうすでにガレアニストを利用することで、パーマーの暴走を大きく急展開させることができたところだ」

「なるほど!」フランツの頭の歯車が回転し、パズルのピースが揃っていった。「あなたがガレアニストの謎の恩人だったんですね。そうか、これですべて納得がいく。ガレアニストがあんなに自滅したのはそういうことだったんですねそれで私たちの存在もバレましたか」

ヴァクシュルが再び語り始める時、その顔に浮かんだ誇らしげな雰囲気をフランツは見逃さなかった。「彼らは皆、アメリカの外国人嫌いを助長することに一役買った。移民国家が、不運にもパーティに遅れて参加した人々を悪者扱いする詩的としか言いようがないだろう」

「あなたは人間が嫌いなんですね」フランツはヴァクシュルの表情を隈なく観察し、彼らの分析を進めようとしながら言った。「苦しめたいのですね」

「それも一興」ヴァクシュルは無表情に肩をすくめて言った。「死は解放だ。そして人間のすべての罪に対する不相応な報酬だ。それどころか、私は彼らにゆっくりとした苦痛に満ちた死を与えることもできる。何世紀も、いや、何千年もかけて、私が適当に決めたタイミングまで。新しい神として、お前らをどうしようが私の勝手だ」

サリエルは嘲笑を漏らした。「冒涜だな」

「いかにも」フランツは言い放った。「歴史を勉強したことがないのですか、ヴァクシュルさん?創造主は自分を模倣しようとする者への裁きを決して惜しまない。あなたは苦しみながら息絶えるでしょう。神を演じようとした他の人間たちと同じように、ね」

「模倣ではない」ヴァクシュルは苦笑した。「しかし、お前らが意味論にこだわるなら、私のことを人類滅亡へと導くために来た死神とでも考えたら良かろう」

「反吐が出る」サリエルが呟いた。「まるで虫眼鏡でアリを焼く子供じゃないか。純粋な悪だな」

ヴァクシュルは目を見開くとラムセスの背中を軽く叩いた。「こいつ、信じられるか?」そして、新たな好奇心に目を光らせてサリエルの方を向いた。「何かの冗談か?いや、まさかさっきお前らが地上で何をしたのかもう忘れたのか?」

「いや、ヴァクシュルさん、あれは革命の一環なんです」フランツは冷静に説明した。「意味のある犠牲であり、メッセージを送る方法でもある。人類のより大きな利益のために、そして私の技術のおかげで、彼らの魂は今も我々の中に生きています」

「もうだめだ」ヴァクシュルはラムセスの背中に体を預け、込み上がる笑いを抑えきれないようだった。「自分の言うことを本当に信じているんだぞ、こいつ!」

「好きなだけバカにするが良い」 フランツはニヤリと笑った。「しかし、技術の力は馬鹿にしない方が、身のためですよ?」

「技術?」ヴァクシュルはラムセスから離れ、触手を高く掲げた。「技術がどんなに進歩しようが、お前たちの弱点を超越した者のこの力に人間は到底敵わない」

「ですが、我々も超越してきましたよ」とフランツは主張した。「マリスは我々に想像を超えた力を与えてくれました。一緒に力を合わせませんか、ヴァクシュルさん?私たちも世界を変えようとしている歩み寄る余地はないのでしょうか?」

「神に『歩み寄ってくれ』、だと?」ヴァクシュルは嘲笑した。「いやいやいや、お前らのような驕り高ぶり、脳の小さい愚か者をのさばらせ、計画の邪魔をされるのは御免だ。妥協はしないお前たち人間に、己の弱さを思い知らせるまでだ!」白黒の瞳に暗い紫色の輝きが宿るとヴァクシュルは胸を張り、触手を振りかざした。「選ばれし血は、我々一人ひとりの静脈に流れている。我々はお前たちの血族として生まれたわけではないマリスを操ることで自分の限界を超えたと思うなよ?まやかしだ。お前が振るう力は、 真の進化には及ばない!」

「興味深い仮説です」 フランツはサリエルと肩を並べるように前に出ると、顎に指を置いた。「では、少し実験してみましょうか、ヴァクシュルさん?あなたの最強の戦士と我々の最強の戦士が、一対一で、邪魔者なしであなたの言うことが本当かどうか確かめるのに、これ以上の方法はないでしょう?」

「時間稼ぎか?」ヴァクシュルは含み笑いを浮かべた。「じゃあ、誰が相手だ?後ろの馬鹿か、前のネアンデルタール人か?」

「俺だ」サリエルは間を置かず言った。

ヴァクシュルは触手でラムセスの背中を軽く叩くと、一歩後ろに下がった。「では、高みの見物といくか」

「お望みのままに、ヴァクシュル様」ラムセスは穏やかにそう言うと、サリエルと数歩の距離になるまで進んだ。

ヴァクシュルは最後に好奇心に満ちた視線を向けてから、部屋の奥にある上部のパイプに飛び上がり、その縁に腰を下ろした。「お前もさがった方がいいぞ、ジジイ
。この実験を台無しにするような手出しは許さん」

「そんなことは夢にも思っていませんよ」フランツは、掌を高く上げて邪魔をする意思がないことを示した。そして手首を軽く振って、アックスマンに後を付いて来るよう合図をした。アックスマンが近づくと、フランツは小声で言った。「合図をしたら、ヴィトーを探しに行きなさい。私が援護する」

言い終わるとフランツとアックスマンは部屋の反対側へと移動した。中央ではサリエルとラムセスが静かに相手を見極めながら、お互いを八つ裂きにする準備を進めていた。ヴィトーの悲痛な叫び声が遠くから響き、しばらくは止む気配はなかった。

フランツは、サリエルが対戦する相手をじっくりと観察した。ラムセスの体格は良く、背丈はサリエルとほぼ同じ。顔立ちは長方形、目鼻立ちがくっきりしていて、眉毛が太く、髭は濃い。男の表情には少しの恐怖も見て取れなかった。それに、フランツはその皮膚から異世界の瘴気をかすかに感じ取った。『ああ、この後で彼を解剖できたら、どんなに楽しいだろうサリエルがヤツをバラバラにしなければいいのだが』

前触れもなくラムセスはサリエルに飛びかかり、左手を襟元へ伸ばした。サリエルはそれを右手で受け止め、自分の左手を振り上げて報いた。ラムセスは拳が顔に届く数センチ手前で右手を出して受け止めた。

赤と金の瘴気が2人の周囲を覆い、互いに相手を圧倒しようとぶつかり合う。サリエルはラムセスより数センチ背が高く、背中を丸めることで自分の体重分相手よりも有利になろうとした。しかしラムセスは動じず、生気を感じさせない目でサリエルを見上げた。

「どうした、神の子よ」サリエルは唸った。「この程度か」

ラムセスを抑えるサリエルの右手から、赤い光が放たれ始めた。ラムセスは歯を食いしばり、膝蹴りで反撃を試みたが、遅かった。サリエルは掌を開いてマリスの爆風を放った。ラムセスの肉は焼かれ、痛みに身をよじった。

サリエルはその一瞬の隙を見逃さなかった。ラムセスの反動と同時に左拳を振りかざし、その顎を正面から殴りつけた。ラムセスが倒れると、サリエルはすかさず相手の体をセメントの向こう側へと蹴り飛ばした。フランツはヴァクシュルへと視線を向けると、薄暗い中でも、不満げな表情がはっきりと分かった。

「今だ」フランツはアックスマンに囁いた。「ヴィトーを助けなさい。蝋燭のある通路が正しい方向だろう」

アックスマンは従順に頷き、薄暗い廊下へと飛び出した。

「どういうつもりだ、ジジイ?!」ヴァクシュルは部屋の反対側から叫び、立ち上がって触手を構えた。「邪魔をするなと言ったはずだろうが」

「なぜそんなに慌てているんですか?」フランツはポケットの中のマリスキューブに指を入れながら、冷静に尋ねた。「きっとあなたの戦士は私たちを倒し、すぐに追いつけるでしょう?」

「黙れ!」 ヴァクシュルはそう叫ぶと、ラムセスとサリエルの頭上を越え触手を伸ばした。だがその触手がフランツに到達するまでに、彼は準備を整えていた。

フランツがマリスキューブを振りかざすと、ブーンという音と共にマリスのレーザーが彼の周りに赤いバリアをたちまち作リ出した。ヴァクシュルの長い触手がぶつかり、大きな音が響いたが触手がフランツに届くことは無かった。

「腐った肉塊のくせに」 ヴァクシュルは唸りながら、渋々トンネル上部の端にある自分の場所へと戻ってきた。「こいつらの戦いが終わる前にお前を串刺しにするからな!」

周囲の騒ぎに気を取られることなく、ラムセスとサリエルは互いに手足を震わせて相手を圧倒しようとしていた。サリエルはさらに大きなマリスの爆発を腕から放ち、部屋全体を震わせ、ラムセスに立ち上がる隙を与えずに激突した。煙が晴れると、フランツは顔の前で防御するように組まれた男の腕の周りに金色の瘴気があることに気づいた。ラムセスはサリエルからの攻撃をある程度防いだかもしれないが、彼のコートは今やぼろぼろになり、顔や関節からは血が流れていた。

「ラムセス!」ヴァクシュルが頭上から叫んだ。「ふざけないで早く変身しろ!」

「しかし、ヴァクシュル様」ラムセスは震える足でゆっくりと立ち上がりながら呟いた。「人間ごときに、そんな

「人間がすべて同じように作られているのではないこいつらは明らかに厄介な改造を受けている。お前はこのヴァクシュルと一緒に人類を屈服させると誓ったんだろう?こいつらから始めろお前の違いを見せてやれ!」

「お望みのままに」

ラムセスを闇の奔流が包み込むと、ヴィトーの叫び声をかき消すほどの異様な金切り声が響いた。次の瞬間にはそれが消え、フランツは目の前に新たに現れた生き物に心を奪われていた。ラムセスには髪の毛だけではなく、人間の顔の面影はまったく見当たらなかった。代わりに長い鼻とギザギザの牙、そして赤く光る目を持つ獣の顔になっていた。頭からは細長い耳が突き出し、身長はサリエルより60センチも高くなっていた。

変身が進むにつれ、ラムセスはコートをはぎ取り、黒い毛皮と金色の斑点で覆われた筋肉をあらわにした。背中からは毛に覆われた長い尻尾が伸び、黒と赤の腰布の端にはアンクのような形の小さな短剣が光っていた。

「ウェアジャッカルだ」ヴァクシュルは言った。「ラムセスが生まれた故郷の人間はあまりにも愚かで、彼の誕生の奇跡を理解できなかった、残念なことだ。ラムセスを新しい神として崇拝せず、彼を怪物と呼び、何年も何年も悪魔払いと拷問を受けさせ、『浄化』しようとしやがった俺がラムセスを見つけた日まで。私がラムセスに、自分に授けられた超越的な才能を完全に目覚めさせる勇気を与えてやった!」

ヴァクシュルを無視してサリエルは前方に飛び出し、相手の顔面に再びマリスを込めたパンチを繰り出そうとした。しかし届く前に、ラムセスは横に回転してサリエルを完璧に躱し、反応する隙も与えずサリエルの背後に回り込んだ。サリエルは体勢を変えようとしたが、ラムセスの巨大な右の爪がすでに後頭部に当たり、サリエルは壁に叩きつけられた。

「まだわからないのか」ヴァクシュルは嘲笑した。「こんな敵に勝てるわけがない恐怖に震え、希望を捨てるがいい。今お前の目の前にいるのは、暴力の神セトの化身だ!」

 

8
DARYA

 

汚物。

それは彼女の世界を満たしていた。下流へと自身を押し流す汚水の奔流の中でダリヤはもみくちゃになっていた。彼女は流されながら、蜘蛛が傷口に集まり、肉を消毒し、再生しているのを感じていた。

その間ダリヤは目と口を閉じ、汚物を遮断して暗闇に閉じこもっていた。残された片方の手で腹を包み、その中に眠る新しい生命に語り掛ける。失うものを手に入れたことでダリヤの世界は変わり、これまで以上に慎重になった。

水中での一秒一秒が苦痛だった。思い通りにいかない状況、恐ろしいほどの汚物。命が再び体に戻ってきてから数か月が経った今でも、あの暗い牢獄の記憶はダリヤの心に深く刻まれている。自由と自律を奪われた体験は心から消えることはないだろうが、二度と同じことは起こさないと、ダリヤは誓った。

ダリヤの手が治ると、水路の底に蜘蛛の脚を2本ほど刺して汚水の流れに逆らうように踏ん張った。そして強烈なマリスの波動で水面から天井へと飛び上がり、別の脚に体重をかけた。

しかしトンネル内は暗く、襲撃者の姿は見えない。ダリヤは元居た場所へと戻るのではなく、別の計画に従うことにした。彼女は流れに沿ってトンネル内を進み、広い部屋へとたどり着いた。水路の両側には通路があり、大きな荷物が川に落ちないように鉄格子の門がある。薄暗い部屋の両側に小さなトンネルがかろうじて見え、鉄の門の向こうの部屋からわずかに光が漏れているだけだった。水の音から察するに、ダリヤは金融街の浄水場、つまりハドソン川の端に流れ着いたのだろう。

ダリヤは、床にネズミや寄生虫の付いた生き物がいないか探した後、天井の隅に貼り付いたまま、口から蜘蛛の大群を出した。蜘蛛はみるみるうちに床や壁に強靭なべたつく巣を張り巡らし、母親の隠れ家を作り上げた。ダリヤの8本の脚はセメントに突き刺さり、彼女の体はしっかりと支えられ、相手が再び奇襲をかける前に無力化する準備を整えた。もし奴がヘルハウンダーズの他のメンバーを狙うのであれば、なおさら好都合だ。

もちろん、もう一つの別の状況も想定できた。奴が水中での移動に長けていて、サリエルが介入する前にダリヤを水中に落とすことを狙っていたのかもしれない。そうであれば、相手が水流に翻弄されることなく、ネズミを使った襲撃の時の様に別のルートで奇襲をかけることも可能だった。ダリヤはこうした事態も想定し、すでに数匹の蜘蛛を廊下に送り込んで周囲を偵察していた。もし、またネズミで攻撃されたら蜘蛛は生贄にされてしまうが、安全確保のために取る価値のあるリスクだった。

そして、ダリヤは待った。どんなに時間が経っても、先手を打たない。相手が忍耐強いタイプでないことはこれまでの様子から明らかであり、むしろそれが弱点である。

水面にさざ波が立つと、汚れた水底から包帯を巻いた頭と、さっき見たのと同じ船長服を着た体が現れた。その手には、まだスレッジハンマーが握られていた。

彼は疲労を滲ませたため息を吐くと、肩をすくめた。「おいおい、夫人さんよ。本当にずっとそこに座ってるつもりなのか?つまんねーな、おい!」

しかし、ダリヤはじっと集中し、彼の一挙手一投足を見守っていた。彼が水面から現れたのには理由があるに違いなかった。彼女の忍耐力に戸惑ったのか、それとも違う考えを持ったのか。いずれにせよ、これは新たな罠の第一段階であることは間違いない。

「口もきいてくれないのかよなんて失礼な女なんだ」男は水をかき分けながら近づいた。「みんなが大好きな暴力をおっぱじめる前にちょっとだけ自己紹介した方が良いと思ったのによちゃんと相手のことが分かった方が楽しいだろう?」

ダリヤは、鉄の門の前までゆっくりと歩いてきた男を見た。近づいて来る時に水の中に居ても嫌な顔一つしていない。薄明かりの中で彼の包帯が首の下まで覆い、皮膚がすこしも見えないほどきつく結ばれているのが確認できた。

「俺、デイヴィスって言うんだ」彼が続けた。「俺って

デイヴィスが再び話し始めると、ダリヤは子供たちに攻撃するように命じた。彼女は、彼が何者か、何のために戦うのかについての戯言に興味は無かった上、それが彼女の領分である以上、今が絶好の機会だった。蜘蛛は消化液を吐き出し、厚い絹の糸で覆い、あらゆる角度から彼に群がった。デイヴィスはハンマーで蜘蛛を叩き潰そうとしたが、その度に大きな隙ができた。3回目の攻撃で、ダリヤは彼の上に飛び降り、脚でその手足を串刺しにし、マニキュアが塗られた鋭い爪で顔を引き裂いた。

しかしデイヴィスはダリヤを見つめたまま、動こうとしなかった。包帯と血のせいでよく分からなかったが、彼の口は笑みを浮かべているように見えた。

「罠にハマったのはどっちかな?」デイヴィスは笑いを抑えきれないようだった。「どっちかなぁー?!」

ダリヤは生意気なデイヴィスにすっかり苛立ち、巣から蜘蛛をトンネルへと送り、援軍の気配を探させたが何も見つからなかった。

「あなたは一人きり」ダリヤは蜘蛛が男の服を焼き払い、その下にあるものを焦げるのを見ながら、呟いた。「残念だったな」

「一人かな?」普通だったら叫んでいるはずのデイヴィスは、なぜか笑い続けている。「一人かなぁ?!」

水面の波紋があまりにも微かで、奴らがセメントの上に這い上がってくるまで、蜘蛛はその到来を感知することができなかった。黒光りする背中に小さなフジツボを付けたゴキブリは、疫病のように汚水から流れ出てきた。大半はダリヤが地面に張ったべたべたする網の犠牲になったが、それよりも多くのゴキブリが易々とその上を這った。

蜘蛛はゴキブリに消化液を吐き出すも、ゴキブリの背中から飛び出す触手が蜘蛛の腹を突き刺し、ネズミの時と同じ悲劇が繰り返されるだけだった。しかし、ゴキブリの数はネズミのそれよりはるかに多く、やがてダリヤはゴキブリが自分の脚を這い上がって来るのを感じるようになった。

ダリヤはすぐに気付いた。『このままでは全滅させることはできない。こいつらを操っている者力の源を無力化しないと。そして奴は私の手の届くところにいる』

しかし目の前に横たわる男の体に視線を戻したとき、ダリヤは怯んだ。ボロボロの船長服の下にあるのは、普通の肉ではなく、無数の膨れ上がったフジツボに繋ぎ止められたひどく醜い青革のようなものだったからだ。男は肉を貫かれて傷口からは血が噴き出していたが、黒い太い根がすでにその体を修復し始めていた。

「何?」デイヴィスが笑った。「まさか自分だけが再生できると思ったのか?」

子供たちが次々とフジツボにやられ、ダリヤは恐ろしい喪失感に襲われた。さらにゴキブリが足に群がり、皮膚を食い破っている。彼女が恐怖に慄いたその一瞬の隙をついて、デイヴィスは腕を振り上げ、ハンマーで彼女の脇腹を殴りつける。腕、足、腹….彼女が横に倒れるとゴキブリはありとあらゆる角度から襲い掛かり、細い触角で彼女の肉を探り、貪った。

数が多すぎる。脚がどんなに強力でも、どんなに蜘蛛を吐き出しても、ゴキブリの攻撃を緩めることができなかった。ダリヤはフジツボから出た触手が彼女の皮膚に食い込み、腕や脚にその汚染された液が入って来るのを感じた。彼女は身の毛もよだつ叫び声を上げて体を起こそうとしたが、すでに手足の自由が利かなくなっているようだ。そしてついにデイヴィスの包帯が緩み、フジツボに覆われたデコボコの体が目の前に立ちはだかった。

「大丈夫、大丈夫。傷つけはしないさ」デイヴィスは笑った。「まだ、ね」

デイヴィスはハンマーを横に置き、ダリヤの前にひざまずくと、節くれだった手で彼女の腹を撫でた。ダリヤは嫌悪感で身震いした。

「夫人さんのことはもうよーく分かってる」デイヴィスは勝ち誇るように言った。「リディアちゃんの占術でなにもかもぜーんぶ分かっちゃうからな。もうメンバーの身元も割れてたんだ。夫人さんのその可愛い赤ちゃんまでぜーんぶ見えたんだぞ」彼はニヤニヤと笑い、指でダリヤの腹をつついた。「だから夫人さんに目を付けた」

ダリヤは彼の言葉をできる限り遮断して手足の制御を取り戻そうともがいたが、無駄な抵抗に終わった。彼女の右の掌からフジツボが出現し始めると再び叫び声を上げた。すぐに口から蜘蛛を放ち、それ以上感染が進む前に肩から四肢を切断するように命じた。それは狂気の沙汰としか言いようがないが、その時彼女が取れる唯一の行動でもあった。

「さっきは相当俺の話を聞きたくない感じだったな」デイヴィスは紫色の唇を尖らせた。「正直さ、そうやって冷たくされるともっと話したくなっちゃうよな。俺はもう昔から自分のことがみんなと何かが違うと感じていたんだよ。人間とはどうもそりが合わなくて。だから船乗りになった。世界を見回ったらさ、どっかで居場所を見つけてやっと落ち着くのかなって。色々見てきたんだよ?忘れられないものも

デイヴィスはフジツボの無効化を妨げるよりも、自分の身の上話をすることに興味があるようだったので、その間のダリヤは自分の手足を切断して再生させるという文字通り骨の折れる作業を続けていた。ゴキブリは切断された手足を食べ始め、さらに多くのゴキブリがダリヤ本体に群がり、彼女は死に物狂いで蜘蛛を投入してそれを食い止めようとした。そんな中でもダリヤは冷静さを失わなかった。大丈夫、大丈夫。こんなときのために、ダリヤは切り札を隠し持っていた。

「それで、旅の途中で手を切ってしまってな後から分かったけど、フジツボの赤ちゃんが入って。まぁ、こんなのは何回か見たことがあったんだけどな。珍しいけど船乗りで手を濡らしすぎるとたまにあるんだよ。眠れないほど痛いって話だったけどさ、不思議と俺はぜーんぜん痛くなかった。むしろちょっと気持ちよかったぐらいだぜ?まるで新しい友達ができたみたいによ

それから、フジツボが広がった。どうやら俺の身体が相当居心地良かったみたいでね。ヴァクシュル様と出会ってからようやくわかった。俺はな、人間じゃないんだよ。ヴァクシュル様が見せてくれた。新たな力を開放する新しい道を俺の身体に流れている血はお前のとぜーんぜん違うんだぜ!俺のはもっと良くてもっと特別」

デイヴィスが喋りながら手を振って、ゴキブリに撤退するよう命じた。「これでお互いのことがよく分かったってことで、ようやく取引開始と行きますかサルチコバ夫人よ!」

ダリヤは慌てて最初に切断した右腕に目をやった。まだ再生中で、反撃には間に合わなさそうだった。『しかたがない』

「ちなみに旅の途中で船を盗まれたこともあって、東南の島にしばらく厄介になっていた時期があって。あそこには本当に妙な事がいっぱいあったんだぜ。飢餓のせいで市場では色んな肉が売られてさ。そりゃ人肉もあったよ?12歳以下の子供は相当な値打ちだった。肉が柔らかくてシチューには持ってこいだった。肉屋へ行くと男の子や女の子の死体が出てきて、好きな部位まで選ばせてくれた。後から分かったけど、その肉は驚くほどおいしくって!オイルとバターと一緒に調理すると、リブロースよりも美味なんだぜ!」

ダリヤは目を見開いた。デイヴィスが再び自分の腹をさすっていた。まるで、中身を確かめるかのように。

「でもどんなに頑張っても、俺は赤ちゃんを手に入れることなんかできなかったんだ。思うだろう?子供の肉ってあんなに柔らかかったらな?普通、考えるよな?だから、サルチコバ夫人さん、あんたの腹ん中に赤ちゃんがいるって聞いた時もう、好奇心が湧いてきてよ!」

デイヴィスはポケットからカミソリを取り出した。折りたたまれたそれを開くと薄暗い光の中で刃がキラキラと光った。ダリヤは全身を駆け巡るアドレナリンを感じながら、最後の、きっと届くはずの一番大事なメッセージを伝えた。

デイヴィスはカミソリを見ると、ため息をつき、ダリヤを特に難しいパズルのように見下ろした。「よし。ここからが痛いとこだぜ」

デイヴィスはカミソリをダリヤの腹に降ろすと、造作もなく彼女のドレスを切り裂き、レースとボディスを引き裂いて腹を露わにした。フジツボに覆われた指で彼女の肉を撫でると、デイヴィスはため息をつき、ダリヤは忌々しさで唸った。

「この日をずっと待ってたんだよ」デイヴィスはダリヤの腹に顔を近づけ、唇で触れながら鼻が曲がるような息で肉を温めた。「この段階の女はなかなか外では見かけないからさ。よく家に籠っているだろう?水から遠くに離れてよああ、なんて

その時だった。ダリヤの腹から青白い腕が飛び出してデイヴィスの鼻を貫き、驚いた彼はごぼごぼと音を立てた。ダリヤは痛みに震えながらも、デイヴィスから流れるエネルギーを感じて、にっこりと笑った。

「ああ、かわいい子」ダリヤは言った。「なんという熱量自分の力さえ知らないのだから」

しばらく呆然と見下ろしていたデイヴィスは、緩んだ顎から唾を垂らしながら、慌てて手を振ってゴキブリを呼び戻そうとしたが、もう遅かった。命を吸い取られた彼の体は、まるでプルーンのように縮み上がっていった。

「な、な、なんだ」デイヴィスは弱々しく言った。

「うちの子は特に食欲旺盛なの」ダリヤは冷静に答えた。「あなたの肉は及第点だけど能力を考慮すると、そのエネルギーは夕食にちょうど良いでしょう」

「俺のエネルギー?!」デイヴィスは叫んだ。「俺のエネルギーを吸収しているのか…? や、やめろ俺はお前とは違う!俺は特別なんだ!」

「いいえ、あなたは特別なんかじゃない」ダリヤはデイヴィスの萎んだ頭から目玉が飛び出すのを見ながら答えた。「そして今や、あなたはただの空っぽの、ただの殻」

 

9
AXEMAN

 

「もう、大げさなんだから。そんなに痛くないでしょ」

足音を殺しながら薄暗い石の通路を進むアックスマンはその声に耳を澄まし、それがヴィトーを痛めつけている者から発せられたものだと推測した。一歩ごとにその巨体を闇の中に潜ませて、彼は影と一体化していった。かつての「人が良い」アックスマンはもういない。今の彼は弱者を食い物にする者を淘汰すべく送り込まれた死の使い、ブギーマンだった。音を立てずに進む彼の内面では、混沌としたジャズのシンフォニーが奏でられ、よく調律されたトロンボーンの熱気のようにマリスをかき立てた。

「抵抗するからダメなのよ。ヴァクシュル様の恩恵を受け入れてくれるとすぐに同化できるのにね。調子に乗った人間はこうなるの、ヴィトーどんなにマリスに酔っても、人類を超越した存在には所詮敵わないんだから。最初から劣っているんだもん、話にならないわ」

さらに数歩進み、アックスマンは壁に体を付けて慎重に向こう側を覗き込んだ。石造りの入り口はたくさんの蝋燭が並ぶ小部屋に続いており、部屋の中央には魔法陣が描かれていた。その近くに、紫色のフロックに派手な帽子をかぶった女性が背中を向けて立っていた。別室の奥にはヴィトーとA・ミッチェル・パーマーが横たわっていた。ヴィトーは苦痛に身悶えし、パーマーは不気味なほど静止しているように見えた。

アックスマンは呼吸とマリスの両方を低く保ちながら、腰にぶら下げた斧の一つにゆっくりと手を下ろした。悪党の命を奪う任務は数週間ぶりで、アドレナリンが上昇しているのを感じた。単に計画が台無しになっただけではない、家族の命がかかっていた。

アックスマンは音を立てずに角を曲がった。彼の影が床に伸び、女と五芒星を覆ったときには、もう遅すぎた。

ザクリ!

アックスマンは流れるような動きで斧を女の首に振り下ろし、首の根元をまるで紙を切るかのように造作なく切断した。切り口から血が噴き出し、体は首の隣の地面に叩きつけられた。もう失敗は許されない、中途半端な仕事は許されない。オーゲン博士の研究室で鍛錬に鍛錬を重ね、アックスマンは生まれ変わった。もう、死を前にして挫折することはない。

アックスマンは斧についた余分な血を払うと、いつも通り斧を腰に戻し、ヴィトーの元へと歩いていった。しゃがんだままその体に目をやると、胸に埋まっている生物が視界に飛び込んできた。みぞおちから突き出ていたのは濃い緑色をした鱗状の芽で、緑色の触手が彼の服を引き裂いていた。その目は虚ろで、体は汗で濡れ、手足は痛みで震え、死の間際にいるかのようだった。

「た助けて」ヴィトーが呻いた。「早く切り取らないと

「待ってろ」アックスマンは落ち着いた声で言うと、片手をヴィトーの肩に置き、体を安定させから斧を振り下ろした。

外科医が切開する時のようにアックスマンは刃の上部を胸に当て、その生物を押し下げて穴を開けようとした。生物の組織が折れるのを感じた瞬間、中から黒い触手が何本も飛び出し、まるでウナギの群れのようにアックスマンの腕を這い始めた。2人は息を呑んだが、アックスマンは血塗れの斧を腕に滑らせ、太い毛を削るように触手を払った。

切り落とされた触手から黒い血が滴り落ちると、アックスマンはヴィトーの胸にある緑色の芽を取り除く作業に戻った。ヴィトーの皮膚からその芽を引き剥がすと、恐ろしい音と共に肉に深く食い込んだ複数の黒い根のようなものが現れた。斧を持ち直しながら、芽をしっかりと掴んでアックスマンはヴィトーと一瞬目を合わせた。

「歯を食いしばれ」アックスマンが言った。「これは痛いかもしれん」

「畜生」ヴィトーはため息をつきながら言う通りにした。「頼むから早く取り出してくれ!」

アックスマンは頷くと、力の限り芽を引っ張った。ヴィトーの肉から血まみれの根が残らず引き抜かれると、湿った破裂音が響く。ヴィトーの悲痛な叫び声に呼応するように寄生虫から何度も悲鳴が上がった。アックスマンはそれを地面に投げつけ、ブーツの下で踏みつけた。

「アックスマン」息を整わせながらヴィトーが言った。「ありがとう

「家族だからな」アックスマンが表情を変えることなく言った。「立場が逆でも、ヴィトーだって同じことをしだろう」

寄生虫が動かなくなると、アックスマンがパーマーの方を向いて斧を振りかぶった。「これでやっと任務完了だ」彼は安堵のため息をついてからパーマーへと進み、始末しようとした。

「待てヤツはまだ生きている」ヴィトーが言った。「あいつらにはパーマーを生かしたかった理由があるはずだ。操るためだから、殺すよりは芽を引っこ抜いて人質にした方が便利だ。後で取引の材料にできるかもしれない」

アックスマンは聞きながら眉をひそめた。「わざわざそんな回りくどいこと皆殺しにすればいいだけの話じゃないか?」

「もう、分かってないな!」ヴィトーは掠れ声で叫んだ。「オレはお前らと違うんだよ!超人でも怪物でもない弱虫だからさ、危険を感じたら相手の首を掻っ切れば良いってわけにはいかないんだよ!」

アックスマンはヴィトーの言葉に耳を傾け、昏睡状態のパーマーの傍にしゃがみ込んでしばらく考え込んでいた。自分の小説の登場人物にするのと同じように、ヴィトーの立場になって物事を理解しようとしたがどう頑張っても頭に靄がかかっているようだ。結局のところアックスマンからすると、ヴィトーは血まみれで、ひたすら逃げ隠れする口実を探している哀れな男にしか見えなかった。

「お前の考え方はまるで理解できない」アックスマンがぶっきらぼうに言った。

「だろうな」ヴィトーは苛立ちで頭を掻いた。「とりあえず、殺さないでくれ。胸の傷をどうにかしたら、オレがあいつの面倒を見るから。ここはオレに任せてくれ」

「そこまで言うなら」アックスマンがつぶやいてからパーマーの芽を切り始めた。

パーマーが昏睡状態だったので、最初の作業と同様に手間はかからなかった。緑の生物を引き抜いた後、アックスマンはヴィトーに目をやって様子を確認した。傷口にボロボロの布切れをつけていたヴィトーの呼吸は落ち着いていたが、その目はまだ不安そうだった。

「どうした」アックスマンは2つ目の芽を踏みつぶしながら聞いた。

「あの女を殺した時さ、首を切り落としたよな?」ヴィトーは不安な声で聞いた。

「ああ、確実に」アックスマンが答えた。「なんでだ?」

「体が首の方に戻ってる」

アックスマンは眉をひそめて振り返った。確かにヴィトーの言う通り、血塗れの死体は両腕を伸ばし、床を引きずって首を付け直しているようだった。

「いったいわぁ」見えない糸で持ち上げられたように体が起き上がり、女性の声が小さく聞こえた。親指と人差し指で頭を押しながら、両手が彼女の頭を支え続けている。「さっきは油断したわ褒めてあげる」

アックスマンは斧を握りしめ、突進した。「何

アックスマンは言葉を遮られた。彼女の体から深い茶色のマリスが放たれ、彼女とドレスを染める血に新鮮な新しい輝きを与えた。首の傷は塞がり、瞳は黄色に変わり、頭から2本の長い角が伸びていく様を、怖いもの見たさに駆られたアックスマンは見ていた。同時に彼女のドレスは何箇所も裂け、赤くなった皮膚が脈動を始めた。最後に、腰からは長いフォーク状の尾が伸び、重い鞭のように地面に叩きつけられた。

「はじめまして、私はリディア・リデル・メイザース」リディアが神経を逆なでするような声で言った。「そしてあなたがアックスマンね。ニューオリンズで一般人の寝込みを襲った、悪名高い殺人鬼。新聞では自分のことを『悪魔』って言ってたでしょ。確か、地獄の燃え盛る炎から生まれた悪魔だったっけ?」

「新聞の記事を読んでくれたのか」アックスマンは興味をそそられた。「ご感想は?」

「最悪だったわ」リディアが笑いながら答えた。「人間ごときが、ましてや詰めの甘い人殺しが悪魔?もう、ずっと会いたかったわ、アックスマンあなたが本物の悪魔と対面する時の恐怖をこの目に焼き付けたかったの!」

「いやいや、それは誤解です」アックスマンが答え始めた。「あれはフィクションで、自分のプライバシーを守るための囮りに過ぎない。リディアさん、俺は悪魔ではなくむしろ、英雄なんです。嘘つきと暴君からこの世を守る英雄で今回はどうやらあなたが悪役のようだな」

アックスマンは勇敢に飛び出し、もう一度彼女の首を切り落とそうと右の斧を振り下ろしたが、リディアは後ろに下がって指を鳴らし、炎の唸りを起こして彼の指先とシャツを燃やした。アックスマンは即座に腕を引っ込め、自分の肉を焦がし始めた炎を叩いた。

「切断、切り付け、振り下ろし」リディアはニヤリと笑い、瞳と同じく黄色く染まった牙を見せた。「それしかできないのね。残念なことだわ私に指一本触れることはできないでしょうね」

それを証明するかのように、リディアは鋭い爪を地面に向け、オレンジ色の炎の壁を呼び出した。明るく、暖かく、消えることなど無いように見えたそれは、ゆっくりと両側へ伸びていき、2人の間に立ちはだかった。

アックスマンはその熱に包まれ、額を流れる汗を感じた。斧をしっかりと握ったまま、横向きに倒れたままのヴィトーを振り返る。

「そこにいろ」アックスマンが鋭く言った。

「部屋が燃えてんだぞ!どこへ行けると思っているんだ?!」ヴィトーの目はパニックで大きく見開かれていた。

アックスマンはリディアへ向き直ると、周囲を確認して突破口がないか目を光らせた。しかし炎は天井や壁に沿って燃え盛り、望みは薄そうだった。炎は避けられない。

『俺は裏切りにも、弾丸にも耐えてきた』アックスマンは体中にマリスを流して自らを奮い立たせた。『そして地獄の果てまで生き延びた。こんな状況に屈することなんてない何があっても、生き抜いてやる』

アックスマンが炎に近づくと、リディアはただ笑った。「どうしたの、悪魔くん?炎が怖いのかい?母の子宮に悪魔の血を注ぐ召喚儀式を完成させるために、私の両親はあらゆる痛みに耐えた。皆は天使を召喚しようとしたが、そいつらは先祖の教訓を忘れてしまった。超越者にとって、飼いならす価値のある獣は悪魔の他にいない!私こそが黄金の夜明け団の最高傑作、クロウリーが父の血に濡れた手から盗んだ写本の知恵より生まれた結晶だ!」

侮辱され、甲高い声で笑われるたびに、アックスマンの怒りは高まった。リディアの驕りがアックスマンの魂に食い込み、彼が培った精神の安寧と自己価値の感覚を奪おうとしている。

『俺を嘲笑う人と同じだ。実は彼女も俺を恐れているそう、心の底では、俺が脅威であると知っている。オーゲン博士がそう教えてくれた。だから弱らせようとしてるんだそんなことで俺を弱らせることは出来ない』

覚悟を決めたアックスマンは勇ましい咆哮を上げ、両腕を構えて炎の中へと身を投げた。左の斧は彼女の肩に深く食い込んだが、彼女はもう片方の肩を振り払い、尾をアックスマンの足に巻き付けて彼の胸に触れ、熱を渦巻かせた。

『俺はもう弱くなんかならない。マリスが守ってくれる!』

リディアは手から灼熱の爆炎を放ち、尾を引いてアックスマンをよろめかせた。焼けつくような痛みが胸を襲うが、アックスマンは脚をしっかりと伸ばし、背後の炎の壁から遠ざかった。

「痛みなんか怖くない」アックスマンが声に出した。「大歓迎だ」

「うるさい!」リディアが叫んだ。「本当の痛みを知らないくせに

リディアが言い終わる前にアックスマンは右手の斧を彼女の顔に向けて振り下ろした。今度は彼女のフォーク状の尾が刃を防ぎ、斧が引っ掛かった。彼は斧を引こうとしたが、リディアは痛みを味わうかのようにニヤリと笑い、アックスマンよりも強く斧を引っ張った。斧は手から離れ、彼は部屋の向こうへと飛ばされた。

「私たちは痛みを恐れないみたいね。それでも、お前は勝てないよ」リディアは笑った。「だって、弱すぎるもん」

アックスマンは歯を食いしばり、自分の斧が反対側の壁でカチャカチャと音を立てるのを見ていた。オーゲン博士から完成品を贈られた日のことをアックスマンはまだはっきりと覚えていた。今となっては、斧が自分の傍らに固定されていることが、どんな心地が良かったか。自分の進化を象徴する、その斧が

歯がゆい思いでアックスマンは左の斧を引っ込めて、悪魔に体当たりして地面に叩きつけようとした。リディアは再び彼を炎で窒息させ、爪でその皮膚を切り裂いて抵抗したが、彼はすでに怒りに取り憑かれていた。その瞬間、彼の視界は純粋な赤で覆われており、血と敵の解体だけを欲していた。

2人は格闘し、血と唾と熱で互いを汚した。騒ぎの最中、アックスマンは目の端に濃い赤の光を見たような気がしたが、その感覚はほんの一瞬しか残らなかった。彼の口から新たな血の滴がこぼれる度に、新たな燃える痛みを感じる度に、自分の中で闇が大きくなり、残虐な苦しみから解放されるのを感じた。ついに悪魔は足元に倒れ、アックスマンはもう一度リディアの頭を切り離そうとした。

「アックスマン!」ヴィトーが叫んだ。「後ろだ!」

アックスマンが振り返ると、そこには巨大な獣がそびえ立ち、ギョロリとした虚ろな目で彼を見下ろしていた。皺だらけの大きな頭と巨大な角が天井を覆い、その大きな耳の穴から太い蛇が伸びていた。裸の胸と贅肉のない腹には粗い毛が生え、切り株のような脚の間には乱杭歯をのぞかせる口があった。手には木の幹のように太いピッチフォークが握られ、アックスマンの胴体に軽々と振り下ろされた。

圧倒的な力を振るわれたアックスマンは壁を突き破って隣の部屋まで吹き飛ばされ、その身体は土とセメントを粉々にした。巨大な悪魔は彼を追いかけ、一歩ごとに床を震わせた。アックスマンは体を起こそうとしたが、胸に恐ろしいほどの鋭い痛みが走った。何かが折れたようだ。

低い笑い声とともに、巨大な悪魔は再びピッチフォークを振り回し、まるで綿菓子をちぎるように残った壁を粉砕した。これまで何度も経験したように、アックスマンは痛みを受け入れて無理やり体を起こした。

「両親は交配の集会の度、たくさんの地獄の公司に声を掛けていた」リディアは悪魔の隣まで歩いて来た。「初めて声を聞いてくれたのはハボリム地獄の大公爵で炎の主君。26もの軍団を指揮するハボリムは、母の子宮にその一部を注入した時、私とハボリムは一心同体となった!」

視界が暗くなるのを感じながら、アックスマンは必死で2人の敵に焦点を合わせた。リディアは指先で火花を散らし、悪魔はセメントの瓦礫を踏みしめて進んでいる。自分がどこに立っているのか、もはや全くわからない。見えるのは漆黒の闇と、その中を行進する2匹の悪魔だけ。はるか彼方にはドクも見えた。ドクは決して学ぼうとせず、変わろうともせず、痛めつけられて血塗れになっていても、アックスマンのことを「人が良い」と呼んでいた。本当に腹立たしい限りだった。

アックスマンは悪魔に向かって突進し、右に炎の爆発を感じた。その痛みを無視した彼は悪魔の巨大な爪で掴まれた。悪魔の汗の腐敗臭が鼻孔を襲う。

『俺は英雄だ』自身を覆う闇を強めながら、アックスマンは自分に言い聞かせた。『英雄は死なない』

悪魔は顎を広げてアックスマンに覆いかぶさり、その唾液に濡れた彼を丸呑みにしようとした。悪魔の下僕を気に掛けたリディアは攻撃を止めた。それが好機となった。ぼろぼろに焦げた肉と、折れた骨の破片が発する痛みの鼓動を無視して、アックスマンは目を閉じ、全てを暗闇に染め上げた。

悪魔の生暖かい息が髪をくすぐるのを感じると、アックスマンは腕を曲げて外側に向かって伸ばし、怪物の手から逃れた。その直後、彼は残された斧を振り上げてその口に押し込み、思い切り前に押し出した。怪物の皮膚と毛皮は鉄のように硬かったが、内部は違った。斧を押し上げ、怪物の巨大な口の上部に斧を叩きつけながら、喉の奥に斧を突き刺し、粘膜と骨と脳を粉々にした。

『これでも、人が良いって言えるか?』アックスマンは鼻で笑いながら臓器を手で引き裂き、悪魔の頭を内側から解体していった。『これでもやつらは俺を見て笑ってやがる』

『やつらは間違っている。間違いを正さないと』

悪魔が自分の周りでバラバラになり、血の雨が降り注ぐ中、アックスマンは震える足でなんとか立ち続けていた。目から返り血を拭って脇に目をやると、悪魔の山のすぐそばに、樽ほどの大きさをした燃える球体を両手で抱えて立っているリディアが見えた。

「悪くないわ」リディアは不満げに言った。「人間にしてはね!」

アックスマンは飛び出そうとしたが、体の反応があまりにも遅かった。リディアは彼が動けないうちに火球を放ち、その場でアックスマンを焼き尽くした。あらゆる角度から襲い掛かる炎は闇を蝕み、彼は仰向けに倒れた。リディアの地獄の炎は皮膚を喰い尽くし、窒息させ、筆舌に尽くしがたい苦痛で彼を満たした。

アックスマンがリディアに馬乗りになったように、リディアはアックスマンにまたがり、爪を立てて彼を地獄の火の中で始末しようと構えた。

「楽しかったわ、アックスマン」リディアがニヤリと笑った。「ご機嫌よ

その時だった。ファラゴーの針がリディアの目を貫いた。リディアの言葉は驚きに満ちたごぼごぼという音で遮られた。彼女は数秒、衝撃のあまり身動きが取れなかったがようやく首を横に向け、部屋の奥へと視線を向けた。

「ヴィトーヴィトォォォッ!!」

 

 10
VITO

 

『馬鹿野郎!なんてことしやがった!』

あまりの恐怖に麻痺したヴィトーは床からその一部始終を見ていた。まさかリディアの血だけで召喚陣を発動させることが出来るとは控えめに言っても、全身の毛を逆立たせるには十分すぎるほどの恐怖だった。悪魔がアックスマンを丸呑みしそうになった時には思わず声を上げ、アックスマンが巨大なモンスターをどうにかして切り刻み、もう一度リディアに立ち向かおうとした時には吐きそうになった。当然、リディアが投げた火球を見た時には、心臓が飛び出たかと思った。まるで終わらない悪夢のように、新たな展開を見せる度に目の前の光景は悪化した。まるで地獄へ突き落とされたかのようだった。

『狂気の沙汰だこんなはずじゃなかった!』

ヴィトーは人間をさほど恐れてはいなかった。どんな嘘をつくのか、どんな悪癖があるのか、大体予想がつくからだ。しかし、こんなのは想定外だ悪魔だと?あらゆる説明をも覆す今の状況は、ヴィトーのような者にとって生存を望める世界ではなかった。

ヴィトーは恐怖で麻痺したままだった。炎がアックスマンの体を食い破るのを見て初めて、何かに駆り立てられた彼は部屋を横切り、ファラゴーを掴んだ。結局のところ、ヴィトーの行動は愚の骨頂そのものだった。英雄がするようなこと。普段のヴィトーなら決してしないようなこと。そして今、リディアがゆっくりとファラゴーの針を眼窩から引き抜くのを見ていた。

「チャンスをあげたのに」リディアは低く唸った。「特別なペットにしてあげると言ったのにこれがそのお返しなの?!」

ヴィトーは震えながらも再びファラゴーの下側に手を押し当て、もう一本の針を発射させた。もちろん、リディアはいとも簡単に振り払った。ヴィトーは不意打ちの機会を失い、正に絶体絶命の状況だった。

『もう終わりだ』ヴィトーは焼け焦げて動かなくなったアックスマンの体へと目をやった。『アックスマンでも倒せなかった相手だ逃げるべきだった。遠く、遠く、この狂気じみた混沌から遠くへ

リディアがふらつきながら歩いてくる中、ヴィトーの脳裏にはサリエルの顔が浮かんだ。『オレに新しい時間を与えてくれたのにそれなのに、全部無駄にしちゃったな』

「来い」リディアはヴィトーのコートの襟を掴み、床に描かれた魔法陣へと引きずって行った。彼女はアックスマンとの戦いですでにかなりの血が魔法陣に溜まっていて、目から流れ出る血もその中に流れていた。

リディアは指でヴィトーが封じたばかりの傷口を切り裂いて、地面に彼を投げ飛ばした。

「待て」ヴィトーは必死に命乞いをした。光る魔法陣が生命力を吸収していく。「待て、悪かった、なんでもするから、奴隷にだってなるから、命だけは助けてくれ!」

「私が求めているのは忠実さなの、ヴィトー」リディアが背中を踏みつけた。「そしてお前にはそれが少しも見当たらない。1900年に父が黄金の夜明け団から追い出された時、彼は復讐をすると誓ったそしてその後、彼は心労で亡くなり、私はその復讐を引き継いだ。クロウリーと奴の仲間に幾千もの呪いをかけてやった。それでも、力を蓄えれば蓄えるほど、それだけじゃもったいないと思うようになった。最近では中級の魔法使いなら悪魔の1人や2人、手懐けることなんか造作もない
私には地獄の力以上のものが必要だった。そして私は異界に呼びかけ、ヴァクシュル様が応えてくださったのだ!」

「あいつは悪魔じゃないのか」ヴィトーが喚いた。「なんなんだ

「悪魔よりも遥かに素晴らしい者。もうすぐ、ヴァクシュル様はこの世の支配者となり、私はその女王として隣に立つ。誰にも邪魔はさせないクロウリーも魔術師団も貧弱な人間も。 集え、地獄の王子たちよ!」リディアは叫んだ。「さあ、活きの良い捧げ物を喰らい尽くそう!」

床の魔法陣から深緑色の光が放たれ、ヴィトーは時空のゆがみを鼻先に感じ取った。そこには、アックスマンが切り裂いたものと同じ姿の悪魔が、そして冥界の異形の者たちが姿を表した。瞬く間に部屋はあらゆる悪魔で埋め尽くされた。恐ろしい光景を視界から消そうとヴィトーは無意識のうちに鼻を地面に向けた。瞬間移動でもなんでもいい、部屋に充満する恐ろしい臭いと音から逃れる方法がないものかと願った。

「皮を一枚ずつ剥いでいただきましょう」リディアは、バッテリーパークで見せたのと同じように、言葉には弾むような喜びが満ちていた。「それから、お前の仲間にも同じことをしてあげる」

ヴィトーの膀胱は空っぽになった。全身が震え、指先から頭皮までしびれるような感覚だった。もう終わりだ。ヴィトーはついに、悪魔の贄になるほどの大失態を犯してしまった。あの日、飛び降りればよかった。やっぱり、全部間違いだったんだ。

その時、金属が肉を切り裂く音がした。ヴィトーは思わず体を強張らせたが、痛みは感じなかった。ザクリ。また音がした。しかし、痛みはない。ザクリ。ザクリ。ザクッザク、ザクリ。強烈な突風が吹き抜け、蝋燭をすべて吹き消し、部屋は真っ暗な闇に包まれた。悪魔のような咆哮が部屋中に響き渡る度に、ヴィトーはパニックに陥り、顔を上げられなくなった。そして、リディアの声が聞こえた。

「何なんだ一体お前は!」

胸に希望の光が灯ったヴィトーはすぐに体の向きを変え、状況を確かめようとした。真っ暗闇の中ではほとんど何も見えなかった。部屋の中でうねる暗い影を除いては。まるでギザギザの木炭で描かれたように、それは闇と血の無限のキャンバスの上をジグザグに行き来していた。

ザクリ。ザクッザクッザク。切り刻む音が続き、ドスン、べちゃ、ドーンという音が聞こえてきた。ヴィトーは動かなかった。悪魔の腐った息の臭いがしなくなったとはいえ、ここが安全になったとは思えなかった。

その時、ヴィトーの目に炎のようなものが写った。暗闇の中で、リディアの血に塗れて歪んだ顔と黄色く光る瞳が照らし出された。彼女の目は必死に何かを探し求めていた。

「どこだ」リディアが呟いた。「私から隠れられると思うなよ、この蛆虫が!」

リディアは怒りに任せて火球を部屋の片側へ投げつけ、地面に並んだ蝋燭もろとも焼き払った。再び照らされたヴィトーは影の落ちた床に目をやると、そこには悪魔の腕、尾、頭、胴、触手が転がり、それぞれが関節できれいに切断されているのが確認できた。

「姿を見せろ!」リディアが叫びながら他の壁にも火球を投げた。

その内の一つは後方の角まで届いたが、昏睡状態のA・ミッチェル・パーマーには辛うじて当たらなかった。四方の壁が再び照らされた時、ヴィトーは自分とリディアが以前と同じく魔法陣の傍にいると気付いた。リディアの悪魔の下僕は一匹残らず暗闇の中で葬られていた。

「あぁ」リディアは開いた口が塞がらなかった。「おお前が

ヴィトーは肘で体を支え、まっすぐ前を見た。部屋の中央にアックスマンが立っていた。その体は焼け焦げているはずなのに、服や顔はおろか、彼の皮膚の一部さえも見えなかった。アックスマンの巨体は純粋な闇の鎧に包まれているようだった。曇り、濁り、嵐のように四肢や筋肉の周りを渦巻いていた。

「アックスマン?」ヴィトーは問いかけてみたが、答えはなかった。

アックスマンは一瞬で標的との距離を詰め、リディアの頭を額から砕いた。片方の黒い腕を彼女の首にかけ、もう片方の手でキツツキのように何度も何度も悪魔を切り刻んだ。リディアの頭が割れて脳みそが地面に飛び散った後も、それは止まらなかった。

「アックスマン」悪魔の体を解体し続ける闇の存在を前にしたヴィトーは息を呑み、もう一度尋ねた。「アックスマン、聞こえるか?大丈夫なのか!?」

それでも返事がなかった。ヴィトーは慌てて味方から遠ざかった。アックスマンはまだリディアを切り刻むことに夢中だった。次に彼が何をするのかをじっと見ていたくはなかった。

部屋の端まで来るとヴィトーは立ち上がり、弾かれたように走り出した。廊下がどこに繋がっていようともどうでもよかった。ただ、できる限り遠くへ行きたかった。

『もういい。オレはここから出て行く。サリエルは武器密輸や破壊活動、テロをこなせるだけの自信を持たせてくれたがこれは一体何だ?別世界の怪物?魔物?ダメだ、ダメだ、ダメだ!オレは降りる!オレをアックスマンみたいな化け物にする気だろう、あいつらは

サリエルの顔が再び脳裏に浮かび、ヴィトーは足を止めた。それだけで彼は心を掴まれ、数ヶ月の間に作ったサリエルとの思い出の数々に触れている自分に気が付いた。夕方から夜になるまで歩いた長い散歩、そしてさらに長い会話。サリエルと仲良くなるために費やした時間と労力。サリエルの信頼を得るためにサリエルに認められるために。

『無理だ、それを無駄になんてできない….サリエルを見捨てることはできない。サリエルは心の底からオレを大事にしているのは分かる。サリエルは厳しいけど、落ち着けば前みたいに戻ってくれる。また一緒に笑ったり飲んだりできるだろう

次にオーゲン博士の研究室がヴィトーの脳裏に浮かんだ。サリエルに案内してもらったことがある。彼は研究室の設備まで見せてくれた。

『本当にそれしかないのか?サリエルのそばにいるために、オレは怪物にならなければならないのか?』

向こうから聞こえてくる足音でヴィトーは現実へ引き戻された。しかたなく目を細めて焦点を合わせると、ダリヤがこちらに向かってゆっくりと歩いて来るのが見えた。服は血で汚れて擦り切れ、髪は濡れているが、肌は傷付いていないように見えた。ヴィトーに近付いたダリヤは退屈そうな表情を見せた。

「そこにいたの」まるで取るに足りない事のようにぽつりと言った。「方向が間違っている。みんなはあっち」ダリヤはそう言って、トンネルの反対側を指で示した。

「ア、アックスマンが」ヴィトーは口ごもった。「アックスマンが何か、おかしいんだどうすればいいか分からなくてもう何もかもわけわかんねーよ!」

ダリヤはしばらく彼を見つめたが、少しも慰めようとはしなかった。そして彼女はトンネルの向こうを見つめて口を開いた。「奴のもとに案内しろ」

「え?」ヴィトーが見上げた。「だって、おかしくなってるって言ったじゃん何されるか

「言う通りにしろ」ダリヤがきつく言った。「我慢の限界だアックスマンがおかしくなったのはこれが初めてじゃない。博士の訓練中に何度もあったことだ」

これ以上説得しても無駄だと思ったヴィトーは長いため息をついて、殺戮の行われている部屋の方へ忍び足で戻った。角からゆっくりと顔を出すと、リディアと悪魔の残骸の上にアックスマンの影が屈みこみ、未だにドロドロの内臓を切り取っているようだった。

ダリヤはヴィトーを押しのけて口を大きく開け、蜘蛛の一群を解き放った。アックスマンは蜘蛛を乱暴に振り回して何匹も見逃し、何匹も刃の厚い側面で完全に平らにした。ダリヤはしばらく部屋の入り口に立っていたが、アックスマンが力を込めて斧を振り終えると、近くに飛び込み掌で彼の頬を叩いた。強烈な一撃だった。

そのあまりの威力に、アックスマンは仰向けに倒れた。ダリヤは足で彼を突くと、自分の子供を体に呼び戻した。しばらくするとアックスマンを覆っていた闇が薄れた。

それを見て、ヴィトーは部屋に忍び込み、味方を見下ろした。アックスマンの白いシャツは焦がれた上に切り裂かれ、サスペンダーはどこにも見当たらなかった。マリスの力で火傷の跡もなくなっていた。

「立てるか」ダリヤが聞いた。

はい、たぶん」アックスマンがゆっくりと立ち上がり、ため息をついた。「少しやりすぎたようですね。すまんな、ヴィトー」

「べべつに良いよ」ヴィトーが小さく言った。

「援護に感謝する。俺一人ではあの女を倒せなかっただろうなんてことだ」

ダリヤは2人に背を向け、出口に向かって歩き出した。「ここはもううんざりだ」

「いかにも」アックスマンが後を追った。「きっとサリエルとオーゲン博士は俺たちの助力を感謝することでしょう」

移動しながら、ヴィトーは最後にもう一度、部屋の奥を見た。悪魔の死体が散乱する中、奇跡的に汚れていない一角があった。そこには昏睡状態のA・ミッチェル・パーマーがいたはずの場所だったが、今はそこに何もないことにヴィトーは気が付いた。死体も内臓も見当たらない。まるで彼が再び姿を消したかのように、血に汚れた床の上に体の形を綺麗に残した場所があるだけだった。

「ま、待て!」ヴィトーが叫んだ。「気付かなかったのか?パーマーがいない!」

「パーマー?」アックスマンが言った。「そういえば、この部屋にいたな」

「そこにいたが、もう、いない」ヴィトーが頭を掻いた。「まだ眠ってたよね?」

「記憶にないな」アックスマンは言ったドアのそばに立っていた。「おそらくパーマーは殺戮に巻き込まれたんだろう。前にも言ったが、ヴィトー、奴を使って交渉などしても意味がない。特にサルチコバさんが戻ってきた今は迂遠な作戦など必要ない」

「でも

ヴィトーは最後にもう一度、部屋の隅を見た。腑に落ちなかった。アックスマンが放り投げられた壁の穴に目をやった。その部屋には出口があり、アックスマンが死体を切り刻んでいる間に、パーマーが何らかの方法ですり抜けた可能性があった。

『でもどうやって?なぜオレが部屋を出た時に?まるで目撃者がいなくなるのを待ってたみたいだ

ヴィトーはまた暗い不安が胸をよぎるのを感じたが、アックスマンの手が彼の肩を掴み、不安はすぐに打ち消された。

「行こう、ヴィトー」アックスマンが背中を押した。「今もサリエルがお前のために戦っているんだぞ」

 11
SARIEL

 

サリエルとラムセスがお互いに一撃を放った時、部屋中に爆発音が響いた。爪に拳が、拳に爪がぶつかる度にサリエルは相手を深く知ることができた。強烈な打撃も裂くような斬撃も受けたが、その度に新たな知識が増えていった。

 確かに、ラムセスが変身したのは予想外だった。スピードと身体能力が飛躍的に向上し、サリエルはそれに慣れるまで時間がかかった。怪物との戦いの中でサリエルはラムセスの動き、そしてその強みを細かく分析した。新しい攻撃を受けることで、サリエルは敵の脅威を減らしていった。

 牙と爪、そして時折振るうアンク型の短剣。ラムセスは恐ろしいほどの力を持ち、頭も悪くはない。しかし彼の戦闘哲学はそれだけだった。サリエルの目からすると、このウェアジャッカルは軍隊に所属した経験が無く、殺人の技術を知らないことは明らかだった。

 単に暴力に長けた者と相手を制圧し命を奪う事に長けた者との差は大きい。戦争で地獄を見たサリエルは後者について非常によく訓練され、乱闘しか知らない相手と戦う際には格の違いを見せつけることができた。

 ラムセスがどんな猛烈な攻撃を仕掛けてきても、ブロックするか、完全にかわすことができた。サリエルはそうして相手の身体を分析し、弱点が見えるまで辛抱強く待った。怪力とは裏腹に、ラムセスは他の獣のように血を流し、完全に息の根を止めることのできる生物と何の違いもなかった。

 ラムセスの巨大な爪がサリエルの頭へと振り下ろされたが、もはや彼の動きはいとも簡単に避けることができる。サリエルは凝縮したマリスを腕から脚へと移し、素早く体を横へ動かした。ラムセスが軌道修正する前にサリエルは怪物の右腕を掴み、引き下ろしながらその場で回転した。巨大な肘がサリエルの肩に触れた瞬間、その手首を力いっぱい引き下げ、大きな音を立ててその腕をへし折った。

 ラムセスは吠え、左手でサリエルの右腕に手を伸ばした。サリエルはそれを受け止めると同時に、脚を振り上げ、ラムセスのアキレス腱に踵を突き刺した。一瞬の内に靴の裏に仕込まれたバネ式のナイフが飛び出し、腱をチーズのように切り裂いた。殺戮のためだけに動く今のサリエルにとって、相手の手足などただの障害物に過ぎなかった。そして障害物を容易く排除する方法ならいくつも知っていた。

 ラムセスはサリエルの腕を引っ張り、かみ砕こうと牙を向いた。サリエルが急に高速を解いたことで、腱を裂かれた獣はよろめいて後方に倒れ込んだ。彼はラムセスのもう片方の腕に体を巻きつけると、これも見事にへし折った。獣の手足は太く、力強く、折るのは簡単な事ではなかった。普通の人間なら歯が立たないだろうが、サリエルはけっして普通などではなかった。彼の人を殺す技術においては右に出るものは居ない。それだけではなくマリスとオーゲン博士により、人間100人分もの力がその体に秘められている。

両腕を折られたラムセスはパニックに陥った。サリエルは黄金の瘴気が獣の体を覆っていくことに気が付いた。何かをチャージしているようだった。一瞬も無駄にせずサリエルは足でもう片方の腱を切り裂き、空中へと飛び上がった。ラムセスの口が大きく開かれ、金色の強力なエネルギービームを放つ大砲と化した。

 「もう終わりだ!」最高地点に達したサリエルの耳に、ヴァクシュルの声が響く。それまでヴァクシュルはオーゲン博士のバリアを破壊しようと躍起になっていたが、不可能に近いことはサリエルも訓練でよく知っていた。どうやらその生物は標的をこちらに変えたようだ。サリエルが振り返ると、ヴァクシュルが再び触手を放っていた。5本とも回避するのは無理そうだった。

 当然、回避する必要などなかった。博士がマリスキューブの破片を発射し、小さなバリアを触手の軌道上にタイミング良く展開してくれた。サリエルが無傷で地上に降り立った時、ラムセスは必死の反撃を繰り出そうとした。

 ラムセスの口から放たれたビームは、サリエルを飲み込むように鮮やかな黄金の光を放ち、部屋中を真っ白に照らした。軍隊はおろか、都市をも壊滅させるに足る威力を持っているとサリエルは感じた。この怪物の力は凄まじかった。

 『だが俺のほうが強い』

サリエルは真っ赤な拳で黄金のエネルギーを切り裂き、ラムセスの喉に一撃を叩き込んだ。サリエルの攻撃で獣の後頭部からマリスが炸裂し、セメントの床が粉々になった。さらに倒れ込む際に膝を喉に打ちつけ、獣が隠していた最大の弱点に体重と慣性を集中させた。

攻撃を止め、サリエルは獣の上に立ちはだかった。防戦一方で血まみれのラムセスはもうただの毛皮に覆われた雑巾のようになっていた。

 「俺に跪くか死ぬか」サリエルが足を怪物の顔につけながら言った。「自分で選べ」

サリエルは2秒だけ返答を待ってから、ラムセスの頭部を踏みつけた。ベチャリと大きな音が部屋に響いた。

「そ、そんな」下僕の残骸を目にしたヴァクシュルは呆然とした様子だった。「人間ごときに、そんな

「次はナメクジ、お前だ」サリエルが空中へ飛び上がった。

「待て、サリエル!」オーゲン博士が叫んだ。「マリスを回復させないと!」

サリエルは博士の心配をよそに掌を開いた。その中央にあるノズルから再びマリスを噴出させると、新たな標的を追い詰めるため、空中で右脚を振りかぶった。

「愚かな人間めが」ヴァクシュルは触手で脚を払いのけ、もう片方の触手を振り上げてマリスの爆風を逸らすと、不敵な笑みを浮かべた。

サリエルは3本目の触手を拳で防いだが、4本目の触手を感じた時には身体がバレーボールのように空中に放り上げられた。そして、5本目の触手が背中に突き刺さり、サリエルは博士がいるドアまで投げ飛ばされた。

サリエルが鈍い音と共に地面に叩きつけられると、オーゲン博士がため息をついた。「だから言ったでしょう」

「一人で仕留める」サリエルが立ち上がりながら唸った。「そこで見ていろ」

「ふむ」博士が顎に手をやった。「あいつには力より戦略の方が良いと思うがね」

「分からんのか!」ヴァクシュルは笑い、地上に飛び降りた。緑色の瘴気を放つ筋骨隆々の体躯の傍で5本の太い触手が威嚇するようにうねっている。「私は高次元の存在人間どもに傷つけられるなど言語道断!」

「やってみないと分からんな」アックスマンが言いながらダリヤと一緒に部屋に入ってきた。「手を貸そう」そう言うと彼は斧を振りかざし、怪物へと突進した。

「アックスマン!ダリヤ!」博士の目が光り出した。「無事で何よりだ。君たちを作り直さなければならないと思うと、不安で押しつぶされそうだったんだ!」

「策略があるのなら早く言え」ダリヤは呟いてから大量の蜘蛛を口から吐き出した。「もうおねんねの時間が近いの」

アックスマンがヴァクシュルの触手に武器を振り下ろすと、サリエルは体を起こして加勢しようとした。しかし攻撃が届く前に、サリエルはエネルギーのパルスに押し戻された。ヴァクシュルの乾燥したしわだらけの皮膚の下に血管が浮き上がり、異界の力を注がれた触手が2人とも後ろに投げ飛ばした。

「リディア!デイヴィス!」ヴァクシュルが叫んだ。「どこだ!奥はお前らに任せたのではなかったのか!」

返事を待つ間、ヴァクシュルは自分を取り囲んでいた蜘蛛に怒りを込めた触手を打ち付けた。死んだ蜘蛛から酸性の黄色いべたべたした液が体に飛び散ったが、怪物は動じなかった。

 

「リディア?!」ヴァクシュルがもう一度叫んだ。「デイヴィス?!今すぐ答えろ!」

「答えなど帰ってこない」ダリヤは腕を組んだ。「デイヴィスはもういない」

「リディアも同じだ」アックスマンが身体を引き起こしながら言った。「どうやら仲間が全員いなくなっているようだな、外道め!」

「ほざけ蛆虫どもが」ヴァクシュルは激怒し、枯れた肉からさらに蒸気を立ち昇らせた。「膿疱じみたゴミが何を言う!」

ヴァクシュルの怒りは頂点に達し、部屋中に満ちた異界のエネルギーが脈動した。顔と体が歪み、筋肉が体全体の形を変えようと蠢いた。そしてぬるぬるした肉が噴き出す血と共にヴァクシュルの体から剥がれ落ちた。

肉が剥がれた箇所からは新しい触手が生えた。緑色で、なめらかで、丈夫そうだった。そして以前のものよりずっと長い。触手は下半身から巨大な髪のように伸び、グロテスクなモニュメントのように胴体を押し上げていた。

「惨めな人間ども」ヴァクシュルが怒りで顔を歪めた。「ゆっくりと嬲り殺してやる!」

 

12
VITO

 

ヴィトーはトンネルの縁でうずくまり、汗まみれの顔をわずかに覗かせ、繰り広げられる恐怖を目の当たりにしていた。サリエルによる巨獣の容赦なき処刑、それからヴァクシュルの醜悪な変貌。刻一刻と、狂気を増していったばかり。

『何なんだこれは?!』

触手の山に上にそびれたヴァくシュルは巨大で、力強く、醜かった。しかし、サリエルはそんなものには動じなかった。彼は躊躇することなく触手の山に飛び乗り、切り刻み、自分を脅かす触手一つ一つにマリスを込めた一撃を放ち始めた。ダリヤが数歩後ろに下がり、子供たちを指揮している間、アックスマンは左右の触手を切り裂き続けた。

猛攻が始まってからしばらく経った後、ヴァクシュルが雄叫びを上げ触手を一つにまとめた。緑色のエネルギーが炸裂し、サリエルとアックスマンは弾丸のように後方に吹き飛ばされた。2人が壁を突き破る前に博士は彼らを赤いバリアを展開して受け止めた。

「サリエル、お願いだから、君の身体の一部でもダメージを受けたら修理にどれほどかかるか思い出してくれ!」サリエルが着地するとオーゲン博士が言った。「ここからは私が引き受けよう」

「貴様だと?」ヴァクシュルは、まるで十数羽のカワセミが一斉に鳴くような笑い声を上げた。「最強の戦士も手も足も出ないなら、ジジイに出る幕はない!もうあきらめろ。どう団結しても無駄だ!」

「ええ、全く同感です」博士は落ち着いた口調で答えた。「私は戦闘には向きません。正直に言いましょう、ヴァクシュルさん私は至って平和主義者なんです」

オーゲン博士はもう一度マリスキューブを取り出し、回転する四角形を大きくした。マリスのレーザーが別のポータルを作ると、博士が保管した3体の獣が現れた。

翼を広げたプテロサウルスのような姿に、刃物のような形の長い頭、棘のある蛇のような尾を持つ生物。棘の付いた甲羅に覆われた大きな亀のような生物で、長く突き出た根のように太い脚と、頭のあるべき場所に巨大な目が一つある生物。最後の生物は、ムカデの胴体の上に犬の頭を持ち、ひょろ長い脚で震えながら歩いていた。

3匹の怪物がヴァクシュルに向かって突進した時、ヴァクシュルはただ笑っていた。「異界の底辺の雑魚かこれが切り札だというのか、ジジイ?!正直、がっかりだ」翼を持った獣が頭上を通り過ぎると、ヴァクシュルは触手で難なく捕らえて引き裂いた。緑色の血が降り注ぎ、紫色のでこぼこした舌で嬉しそうにそれをなめた。

「小さい頃にはこの程度の獣を毎日のように食っていた。正確に言うともっと新鮮な、大きい獲物を狙っていたが」ヴァクシュルが鼻を鳴らした。「人間の愚かさは本当に天井知らずだ!」

ヴァクシュルは勝ち誇ったように笑うと、亀の獣を掴み上げ、飛んでいる獣と同じ目に合わせた。爪、牙、突きでヴァクシュルに襲いかかろうとした最後の獣は、触手の間に閉じ込められ、葡萄のように叩き潰された。

しかし、オーゲン博士の表情から不安は読み取れなかった。むしろ、彼の目はヴァクシュルに釘付けにされたまま、その体表を流れ落ちる血しぶきを眺めていた。アックスマンとダリヤはゆっくりと彼の元へと戻り、博士が何を企んでいるのか興味深く見守っていた。

「どうした、ジジイ」ヴァクシュルが笑った。「ついに気の利いたセリフも思いつかなくなったのか」

「いえいえ」オーゲン博士が首を振った。「ただ待っているのです」

「待っている?何をだ?嬲り殺されるのをか?」

「ヴァクシュルさんがどの毒素の餌食になるのか、待っているところです」と博士が学者ぶって説明した。「私の経歴をご存知ないと思いますが、私は長年にわたって生物の免疫システムを効率良く変化させるユニークな毒物やガスを数多く開発してきました。最近の戦争でそうした毒物が頻繁に使用された事実について、自分で言うのも恥ずかしいのですが、非常に誇りに思っているのです」

ヴァクシュルは目を細めながら、博士の発言の意味を理解しようとした。

「この毒物は私が個人的に開発したものです。
異界には存在しません。故にヴァクシュルさんのような、平凡な方法での抑制が困難な異界の上級生物に使うには、ちょうどいいのではないかと思ったのです。そう、先ほどヴァクシュルさんがおっしゃったように、あの獣は上級生物に捕食される弱者ばかりだっただからこそ、彼らを選んだのです」

「な」ヴァクシュルは口ごもり、触手のあちこちに水泡ができ始めた自分の体を見つめた。「な、何をしやがった!」

「ああ、やはりヴァクシュルさんには水疱形成剤も効くみたいですね」オーゲン博士はそう言うと、メモ帳を取り出し、猛烈な勢いで何事かを書き込み始めた。「非常に興味深いです。それに、息切れもしているようだし

「なぜ」ヴァクシュルは喉をかきむしりながら、声を荒げた。「なぜ私は燃えているんだ?!」

「おぉ、よかった」博士はつぶやきながらメモ帳に書き込みを続けた。「可燃剤がうまく作用してくれるか心配していたところです。これならちょうど良いはずです」

「卑怯者め」ヴァクシュルは咆哮し、触手を地面に打ちつけ、博士に向かって突進しようとした。「貴様が私に何をしでかしたかはもはや関係ない、それでも貴様は殺せる!」

「残念ですが、それは無理です」博士は頑なに首を振った。「ヴァクシュルさん自身がおっしゃった通りじゃないですか。私たちはあなたに勝つための腕力はありません。しかしこの世界では、どんな筋肉もテクノロジーの力には勝てませんよ」

大きな音が部屋中に響き渡り、ヴァクシュルの体は蠢く小さな肉片の雨粒と化した。触手、肉、髪の毛の血まみれの塊が壁とヘルハウンダーズに飛び散り、長い戦いの終わりを告げた。

「博士」ダリヤは、自分の服を覆っている内臓を見ながら、ため息をついた。「なぜそれを最初から使わなかった

「あぁ、ダリヤ、分かっていませんね」博士は首を振った。「さっきの生物に自らの毒に対する免疫を作り出すのに、どれだけの時間と資源を費やしたか知らないでしょう。実際、あの雑魚を使わなければならなかったことに非常に後悔しています。もし、あんな不思議な検体を無傷で研究出来たら、どんな秘密が解き明かされたことか!」

ヴァクシュルが撃破され、広い部屋に初めて不気味な静けさが漂った。ヘルハウンダーズの面々が体から血糊を落としている間、沈黙を破ったのはサリエルだった。

「ヴィトーはどこだ」サリエルが言った。「助けられたんだろう」

ちょうどいいタイミングでトンネルから、戦いの間隠れていたヴィトーが出てきた。毅然とした態度のヘルハウンダーズとは違って、彼は心身ともに疲れ切っていた。

「サリエル、博士、アックスマン、ダリヤ」ヴィトーが申し訳なさそうに言った。「助けてくれてありがとう」

博士とアックスマンが口を開こうとしたが、サリエルがすぐに切り返した。

「礼は良い。お前がたるんでいるからこういうことになったんだ」サリエルがきつく言った。「帰ったらマリス漬けだ」

グサッと包丁が心に突き刺さったようなショックがヴィトーの心を貫いた。いくらサリエルのことをよく知っているつもりでも、耳を疑っていた。

周りの3人を黙らせながら、サリエルはヴィトーの目を真っ直ぐに見据えた。まだ信じられないと固まっているヴィトが口を開いた。

「今、な何て?」ヴィトーが口ごもりながら言った。

「パーマーはどこだ」サリエルが続いた。「撃ち損ねたのはお前だからな。もう死体を確保してるはずだろう」

ヴィトーはもう一本の短剣を突き立てられ、体が震え出すのを感じた。自分の耳が信じられなかった。

『本当にそれだけなのか。それが本当にサリエルの頭に最初に浮かんだことなのか。この瞬間まで、オレは100回以上逃げようと思ったはずだ。それでも絶対逃げ出さなかったサリエルがいるから。心の底ではオレのことを大切に思ってくれていると、ずっと信じていたかったから。サリエルがどんなに無愛想で冷たくても、彼の中にある思いやりを信じられると思ったから』

「オレのこと心配していなかったのか」ヴィトーはもう一度、自暴自棄になって声を荒げてみた。

「無論心配だ」サリエルがぶっきらぼうに言った。「弱いからな。だから強くなってもらわないと困るんだ、ヴィトー」

『どうでもいいんだ。オレのことなんか、本当はどうでもいいんだな』その気づきが固まると、ヴィトーの胸に穴が開き、喉が締め付けられるような感覚を覚えた。『サリエルが本当に気をかけているのは、他の何かサリエルがそうなってほしいと思うオレだ。それが何なのかオレにはさっぱりだ。今朝、オレはサリエルたちが無実の人を大勢殺すのに手を貸した。それから地獄の悪魔がオレを奴隷にしようとし、殺そうとした。何度も何度も!それでもオレはここに残ることにしたんだ。サリエルに命を救われたからじゃない。これが嘘じゃないって信じたかったから。全て間違いだと思いたくなかったサリエルが言うことは全部、ただオレをコントロールするための嘘だなんて思いたくなかったから!』

その思いだけで、体がばらばらになりそうだった。もちろん、そんなことを口に出せるわけもなかった。あんなことがあった後では、ましてやサリエルの言葉を聞いた後では、なおさらだった。

『オレはサイコパスを愛していた怪物を愛していたんだ!』

「何をグズグズしてるんだ。早くパーマーを見つけて来い」サリエルが命令した。

「その間、この辺りの残りをくまなく調べよう」
オーゲン博士が口を開いた。「どうでしょう?運が良ければ、その生物は予備の標本を隠し持っていたかもしれないね」

『逃げなきゃ。タイミングを待って、走って、振り返らないように遠くへ逃げないとここにこれ以上長くいたら殺される。いや、もっとひどいことをされるに決まっているんだそしてどんなひどいことが起きても、サリエルは何もしてくれない。何があっても、オレの弱さのせいにされるだけだ』

ヘルハウンダーズが移動し始めると、ヴィトーはサリエルの目をじっと見つめ、頷いた。「ああ。サリエルの言う通りだ

「だろう?」サリエルは鼻を鳴らしながら立ち去ろうとした。「ヴィトー、お前は臆病者かもしれないが、いずれお前は戦士にする。家族だからな。どんなことがあっても諦めない」

『そうだ、オレは臆病者だ。そんなことは百も承知だ』ヴィトーは拳を握り締めた。『だが、怪物になるのはゴメンだ』

 

EPILOGUE
JOHN

 

ジョン・エドガー・フーバーは、ため息をつきながら机の上の書類を整理し、今日の仕事はこれでおしまいにしよう、と覚悟を決めた。爆破事件から数日が経っていたが、司法長官に報告できることは何もない。というのも、パーマー司法長官が事件現場で彼らを見捨てて以来、姿を見せていないからだ。

『一体どこに行ったんだよ』フーバーは、色あせたネクタイを整え、席を立った。『司法省に聞いても知らん顔されたし』

フーバーは小さな木製の机から離れ、通りに面した窓際に移動した。外では小雨が夜の街をうろつく歩行者に降り注いでいた。フーバーとBOIはすでに地域の住民に聞き込み調査を行い、正しい方向へと導いてくれる手がかりを必死で探していた。しかし、何も出てこない。馬車がどこから来たのか、誰が運転したのか、爆弾がどうやって作られたのかさえ、誰にも分からなかった。現場周辺には「アメリカン・アナキスト・ファイターズ」と書かれた粗末な落書きが散見されたが、ガレアニスト共が何年もかけて作ってきたものとあまりにも似ていたので、特に違和感を覚えることはなかった。周辺を調べたところ、建設作業員数人の死体と、ニューヨーク・カーブ・エクスチェンジの新社屋内に隠れ家が作られていることが上がったが、それでも特定のグループや人物につながる確たる証拠は得られなかった。

フーバーは道路に目を向けた。夜が更けて、オフィスに他の捜査官は見当たらない。しかしフーバーは急いで帰ろうとはしなかった。やるべきことはまだ山ほどある。

『この事件にちょっとでも進捗があればなぁ。もう、無理か。あれから時間が経っているんだもんな。それにあの州警察のアホンダラはひっぱたかれても証拠の断片も持ってこれるとは思えん。爆破を起こした共産主義野郎はもうとっくに船に乗って

オフィスのドアが開く音で、フーバーの思考は一時停止した。何事かと音の方向に目を向けると、A.ミッチェル・パーマーの姿が視界に入ってきた。

「司法長官!」フーバーは急いで近づき、まじまじとその顔を確認した。「これは夢なんかじゃないって言ってください!」

「これは現実だ」パーマーは緊張した面持ちでそう言うと、帽子を取ってさらに奥へと入っていった。「これから話すことは少々理解し難いかもしれない。だから座ってくれ、フーバー君」

フーバーは言われた通りにして、椅子に座り直した。「お望みなら、書類棚の後ろにアレを隠してありますが

パーマーはフーバーの机の角に座ると、「まだその必要はない」と言った。「正直言って、この数日間に起こったことはほとんど覚えていない。ああ、もちろんこの話は他言無用だ」

「もちろんです」フーバーは椅子に座りながら言った。「た、体調は大丈夫なのですか?最後に覚えていることは何です?」

「出発の直前、オフィスの外で女性を助けるために立ち止まった。小銭入れを車の下に落としたと言っていた。それで車の下に手が届く人が必要だとそれ以上は覚えていない」

「でもその後、僕らと一緒に車に乗りましたよね」
フーバーはすぐに指摘した。「それも覚えていないんですか?」

「ちっとも」パーマーは首を横に振った。

「ウォール街とブロード街に着いてから、僕らを残してどこに行ったのかも覚えてないんですか?」

「まったく」

「そんな」フーバーは膝を掌で叩いて椅子の端に寄りかかった。「だって、筋が通りませんよ。司法長官はあそこにいたんですよ!それから、ちょっと待ってくれって言いながら数歩外に出て、大きなハエを追い払うみたいに手を振って、立ち去ったんです。バーンズも僕も声を掛けたんですけど、まるで聞こえないようでした。僕らは人ごみをかき分けてあなたに追いつこうとしたんですが、気が付いたら司法長官は消えてたんです」

「確かに不思議だ」パーマーは頷いた。「でも、目覚めたときのことを聞いたら、さらに驚くと思うがな、フーバー君」

フーバーはため息をつき、椅子の背もたれに体重を預けた。「聞かせてください」

「私は道路の端で目を覚ました。頭は泥まみれで、水たまりの中に叩きつけられたようにずぶ濡れでね。コートを着た長髪の中年男が目の前に立っていた。彼は私を助け起こし、大丈夫か、と尋ねた。私は手足を伸ばし、疲れてはいるが、特に痛い所は無いと答えた。すると彼は満足した様子で帰ろうとした。

「しかし好奇心に駆られた私はその男の肩を掴み、何があったのか教えてくれと、強く頼んだ。彼はしばらくためらった後、私の目をまっすぐに見て、私が憑りつかれたと教えてくれた。それもただの幽霊ではなく、悪魔に。彼女は命からがら生き残るために私の身体に入って逃げたらしい。弱った力を取り戻そうとしたらしいが、その前に彼は悪魔を祓う方法を見つけた。つまり、私は大量の聖水をかけられて、衰弱した悪魔の魂は地獄へ追放された」

「悪魔に憑りつかれた?」フーバーは鼻で笑った。「信じられませんね。冗談きついですよ、司法長官」

「ああ、最初は私も信じられなかった。だが確認しても何も盗まれていないし、怪我もしていない。それでもやっぱり怪しい。そこでその男性に助けてくれたお礼をしたいので、一緒に家に来てはくれないか、とお願いした。しかし彼は、ただやるべきことをやっただけなので、と言って断り、私がさよならを言う前にそそくさと帰ってしまった。」

「ふむ」フーバーは木製の机を指で叩いた。「その男は何者だったんでしょう?神父とかでしょうか?」

パーマーは窓の外を見つめてしばらく考え込んでいた。「どう見ても神父じゃない。よく言えばチンピラ、悪く言えばベテランのペテン師だった。でも、なぜかフーバー君、混乱していたせいかもしれないが、私は彼を信じてしまったんだ」

「まあ、よく言うでしょう。事実は小説よりも奇なり」とフーバーは言った。「とにかく、その話を聞いてあることを確信しましたよ、司法長官」

「それは何かね?」

「やはり隠しておいたアレが必要です」フーバーはそう言うと、椅子から立ち上がり、書類棚に移動した。

重い鉄のキャビネットの後ろにある小さな壁の隙間には、16年熟成のジョージ・ローのアイリッシュ・ウイスキーが収められていた。酒の販売が禁じられる前にフーバーが買った最後のボトルの1つだ。フーバーは、そのボトルを手際よく取り出すと、横の棚からグラスを取り出し、机の上に並べた。

「連邦法違反だぞ、フーバー君」パーマーは笑顔で言った。

「逮捕しますか?」フーバーは不敵な笑みを浮かべ、グラスにたっぷりと注いだ。「しかし、不法占拠者を自分の身体から追い出したばかりの人に逮捕されるなんて、何か納得がいきませんね」

2人は笑い声を上げ、グラスを手に取った。

「アメリカはウォール街でひどい傷を負った。我が国が経験する悲劇は、恐らくこれが最後ではない。しかし、この先どんな苦難が待ち受けていようとも、我が国は気高く前進していくだろう」パーマーはグラスを掲げて話し始めた。「私の退任の時期が近づいてきている。時代は変わったこの国が誇り高い心を持ち続けるためには、新しい血が必要だ。君やバーンズみたいな人々だ。私のような老いぼれの化石が墓に入る準備をしている間、君たちが炎を灯し続けるのだ」

「この国の期待は裏切りません」フーバーは厳粛な面持ちで言った。「あくまで僕の見解ですが、これからは明るい未来が待っていますよ」

BOIに乾杯」そう言うとフーバーのグラスと自分のグラスを合わせた。「未来に乾杯だ」

THE END